nakaminai

無自覚の手ざわり

 部活が終わり、侑と治、同じ家に帰ってきたのは夜の7時をまわっていた。
「ただいま」
 我先にと玄関をくぐって放った言葉は無意識に声が揃った。ふたりは不愉快そうに眉をひそめ、「真似すんな」とばかりに睨み合う。
「おかえり」
 あたたかな灯りの漏れるリビングから顔を出した母が、目をまるくする。ふたりの鏡に写したような顔が今日は非対称で、それぞれ異なる場所にあざや引っ掻き傷があったから。こういうとき、いつも侑のほうが目立つ傷が多い。
「あんたら、また喧嘩したん?」
「してへん。クソサムが勝手に暴れたんや」
「テメェが先にボロカスひとを罵ってきよったんやろが、クソブタ」
「なんやねん、『下手くそ』って図星つかれたからって口やのうて手が出るあたり、お里が知れますなあ、治さん」
「お里はおまえと一緒じゃろがい!」
「いたっ! 蹴んなやボケ!」
 思わず治の胸倉をつかむ。玄関で乱闘再開しかけたところを「喧嘩すな」と母に怒鳴られ、侑はギロリと治を睨みつけた。
「おまえのせいで怒られたやろ」
「フン!」
 ぷい! とこれ見よがしに顔を背けられて、ますます苛立ちが募る。
 ――むかつく。かわいくねーやつ。
 治は靴を脱ぎ、どすどすと足音をたてて二階に上がっていった。いらついていても、脱いだ靴をきちんとそろえるところが治らしい。それにしても気に食わないのは、どれだけ大喧嘩をしても片割れとは同じ家どころか同じ部屋に帰らなければならないことだ。夕飯の前に、治との共同部屋にスポーツバッグを置きに行かなくてはならない。
「おかん! 部屋、クソサムと別にしてや! もううんざりや、俺ら高2やねんで」
 二階にいる治にも聞こえるよう、わざとらしく声を張る。母には「今更何言うてんねん、空いてる部屋ないわ」とあしらわれたが、そこは想定内であり、実現するとは思っていない。侑の言葉を聞いて、治がちくりと胸を痛めればそれでいいのだ。
 喧嘩のたびにひとり部屋がいい、と漠然と思ってはいるが、実際のところ、ひとりで何をどうやって過ごせばいいのか全然イメージできない。どうせどちらかがこの家を出るまで侑と治は同室で生活するのだろう。未だに兄弟と同室で2段ベッドで寝ているだなんて、侑の周りには誰もいない。彼らは他人事だから「2段ベッド憧れるわー」なんて言えるのだ。「あいつら、他人事やと思いよって」と治ともよく愚痴を言い合った。はよ独り立ちしたいわ、なんて言いながら、実は治と一緒に過ごすのは存外悪くないと思っている――喧嘩しているとき以外は。重い足を順番に持ち上げて、侑はスポーツバッグを引きずりながら階段を上った。

 ◇

「おかん! 部屋、クソサムと別にしてや! もううんざりや、俺ら高2やねんで」
 階下から聞こえる片割れのわめき声に、スポーツバッグからタオルやワイシャツなんかの洗濯するものを引っ張り出していた治の手がぴたりと止まる。
「なんやねん、腹立つなあいつ……うんざりはこっちの台詞じゃ、ボケ」
 治は手にしていたタオルを机に叩きつけて吐き捨てた。
 侑がわざわざ治に聞かせるためにばかでかい声でわめいていることは、長年の経験でお見通しだ。それでも、ほんの少しだけ、小さな針の先端が胸の真ん中に沈む感じがした。ちくっ。思わずTシャツの胸のあたりをぐしゃりと握り締める。
「はーあ、サイッアクや」
 足を放り出すように大股に部屋に入ってきた片割れが、またばかでかい声で嘆く。振り返ると、侑はじろりと治を見た。なんか文句でもあるんか、と細めた瞳が唸っている。
「腹減った」
「あ!?」
 治は部屋の出入り口を塞いでいた侑のからだを押し退けて部屋を出た。階段を一段下りると、開きっぱなしの共同部屋からぶつくさと侑の文句が聞こえてきたが、聞こえないふりをした。構ってやると調子に乗るのだ、侑は。これもまた、長年の経験で培った知見。侑には無視が一番効く。
 ダイニングテーブルには3人分の食事が用意されていて、いつもの席に治は座った。その隣が侑。治の前には母が座る。侑がむすっとした顔でやってきて、「はよ座りや」と母に促されて席に着き、ようやく夕食。鶏のから揚げとみそ汁だった。美味い。
 食事中、侑も治も母の会話には応えるが、互いには口をきかなかった。喧嘩をしているのだから当然だ。腹を立てている相手と口をききたいわけがない。それなのに、最後の一個のから揚げを横から侑がひょいと奪ったものだから、治は「あ!」とばかでかい声をあげた。侑が急いでから揚げを口に詰め込む。
「取んなや、いやしいクソブタやな! 1個残っとるやんけ!」
 侑の皿にはから揚げがひとつ残っているのだ。それをわざわざ治の皿から取るのはどういう了見なのだろう。呆れた意地汚さだ。
「ううはいわ」
「もう、ごはんの間ぐらい仲良うしいや!」
「クソツム」
「むー!」
 頬をハムスターのように膨らませた侑が抗議のうめき声をあげたが、無視して侑の皿からから揚げを奪ってかぶりつく。結局プラマイゼロなのに、何をやっているのだろう、と冷静に考える自分もいるが仕方ない。

 食事の後、3人は座れるリビングのソファをだらりと寝転がった侑が占領している。ダイニングテーブルで頬杖をついた治は眉をひそめた。普段は気にならないそれにも喧嘩している今ばかりは腹が立ってくる。
「お風呂どっちかはよ入ってや」
「おー」
 侑はスマートフォンをいじりながら生返事をした。これは聞いているようで聞いていないパターン、絶対。治はため息をついて腰を上げた。
「俺入るわ」
「おー」
 また生返事。やっぱり聞いていない。

「はー」
 浴槽に身を沈めて吐き出した吐息が、濡れた室内に反響する。少し熱い湯が、部活動で疲れ切った全身をほぐしてくれるようだ。湯に浸かって足を伸ばせるのはいい。せせこましく小さくなって入る風呂なんて開放感のかけらもない。一人暮らしするならば、風呂はもっとも譲れないポイントだ。絶対風呂が広い物件がいい。
 風呂場の外で脱衣所の引き戸が開く音がする。母が洗濯物のチェックにでも来たのかと思ったら、足音でそうではないとわかる。誰の足音かもすぐに気づいた。風呂場のドアに外側からべたりと両手が張りつき、ぼんやりとひとのシルエットが映る。ドアに近づけられた頭は金色。足音で予測したとおり、やはり侑だった。しばらく水音もたてずにじっと眺めていても侑が動かないので、ドアにばしゃりと湯をかけてやった。
「うおっ! サム、入っとんか」
「入ってんで。見たらわかるやろ」
「俺が入る言うたやん!」
「は? 言うてへんし、俺入るわ言うたらお前、『おー』って返事したやん」
「嘘やろ」
「嘘ちゃうて。諦めて待っとれや」
 無言。ドアにへばりついていた片割れの姿は見えなくなったので、諦めて出て行ったか――そう思ったのも束の間で、ドアがバーン! と勢いよくひらかれた。湯気の向こうで仁王立ちしていたのは、全裸の侑だ。
「なんやねん、おまえ!」
「入る気満々やってんから、今更退かれへん!」
「知るか!」
 侑は構わずプラスチックの椅子に腰かけ、頭からシャワーをかぶった。シャンプーを手に取って、髪をがしがし混ぜて泡立てる。
「髪キッシキシや」
「ブリーチしすぎて髪が悲鳴あげとんねん」
「まあそうやけど、ええやん、かっこええし」
 どうでもいいことを言いながら、泡をシャワーで流した。トリートメントをして、スポンジで全身を洗い立て、またシャワーで流す。ぴかぴかにきれいになった侑は濡れた髪を後ろに撫でつけて浴槽に片足を突っ込んだ。
「よっしゃ! 入んで、寄れや」
「最悪や……」
 治はじとりと目を細めながら、仕方なく脚を折り曲げて浴槽の3分の1ほどを明け渡した。侑が腰を下ろすと、湯がいくらかざばっと溢れて排水溝に流れていった。治の頭に「これ、あとから入るおかんに湯が少ないって怒られるんちゃうか」と不安がよぎる。侑はもちろんそんなことには全然思い至らないひどくすっきりした顔で、「はー」と間延びした声をあげた。
「気持ちえー。風呂、最高やあ」
 うっとりと呟く侑を眺めて、治は目を細めた。
「なあ、ツム」
「なにー」
「喧嘩してたんちゃうん、俺ら」
「せやった? ……いでで! そこ触んな!」
 すっとぼけた顔の左頬にできた赤黒い痣を人差し指と中指で押してやると、侑が咄嗟に治の手を払いのけた。
「フッフ、俺が殴ったとこや。思い出したか?」
「わかっとるわ。……まあ、でも、俺らいっつもこんな感じやろ。いつまでも喧嘩しとっても、おもろないやん。同じ部屋で寝なあかんのに」
 たしかにそれは一理ある。先ほど「部屋を別にしてくれ」という侑の要望が一瞬で却下されたとおり、どうあがいても同じ部屋に帰るしかないのだ。雰囲気は良いにこしたことはない。
「仲直りせえへんと、ベッドで下からケツ蹴られるしな」
 二段ベッドの上段を侑、下段を治が使っている。下段からは上段の侑を攻撃し放題なので、喧嘩しているときは有利で気に入っている。何度も尻を蹴られたことがある侑がむっと眉を寄せた。
「蹴るやつが言うなや」
 侑が水面を叩くとばしゃりと湯が弾け、しぶきが治の顔を濡らした。治は手のひらで顔を拭い、声を上げて笑った。不機嫌な顔をした侑も、つられて笑う。
「部屋別々にしたいってほんまか?」
 なんとなく、治は訊いてみた。侑は目をまるくしていたが、それから自分が言ったことを思い出したらしく「ああ」と声をあげた。
「ひとり部屋って憧れるやろ」
「まあな」
「でもまあ、うち、空き部屋ないから無理やし。それに、よう考えたらサムが同じ部屋におってもおらんでも、大して変わらんわ。おかんの腹の中から一緒やもん」
 素直じゃない片割れの答えはまわりくどかった。つまり冗談ってことか、と聞けば、そうとも言うな、と最後まで素直じゃない言葉が返ってくる。まあ、侑らしいと言えばらしいけれど。安堵とともに、おかしくなって思わず笑う。気恥ずかしくなったのか、侑が「そういえば」と話題を変えた。
「なんか、サムと一緒に家の風呂入るん久しぶりやんな。何年ぶり?」
「そら大浴場でもないのに、高校生にもなって一緒に風呂入らんわ。狭いわ、アホ」
「ほんまやな! 毎日一緒に入ってた頃は広かったのになあ。小学生までやったな」
「な。足伸ばして、足の裏くっつけれたもんな」
 治は試しに足を伸ばしてみた。侑のからだを突き破るわけにもいかないので、脚を開いて侑の腰を挟むような格好。侑が「脚、邪魔や」と笑うので、治も「フッフ、脚長いねん」と笑った。
 足をだらりと投げ出してぼんやりと天井を眺めていると、突然足裏を何かがもぞりと撫でた。思わず足を引っ込めようとしたが、侑のここで発揮しなくていい瞬発力がそれを阻止した。しっかり足を掴まれている。足先から侑の顔に目を移すと、彼はにやにや、なんだか意地悪い笑みを浮かべている。
「何してんねん。離せや」
「なに? 足の裏弱いん?」
「だいたいみんな弱いやろ。くすぐったいやん」
「フッフ。そう? サム、練習で脚疲れたやろ。マッサージしたろか」
「あ? いらん……おい」
「うりゃ! 足ツボマッサージ〜」
「いだだだ! お前、加減せえや! シンプルに強すぎんねんて」
「え? そうなん?」
「知らんけど痛いからやめえや」
「ふーん。じゃあ優しいやつにしたるわ。サムだけ特別やで」
「おう、優しいやつならええわ」
 侑がにこりと微笑む。片手で掴まれていた左足が持ち上げられて、水面から引き揚げられる。しずくを滴らせながら侑の胸の前に持ってこられた足は、両手で大事に包まれて、親指で足裏をぐっと優しく押される。先ほどのように痛くない。宣言したとおり「優しいやつ」になっているようだ。浮いた親指がかかとをなぞり、足首の裏に回り、足裏と同じようにぐっと押される。親指は膝に向かってちょっとずつ上に移動しながら、ぐっ、ぐっと押し込まれる。意外と悪くない。凝り固まった筋肉がほどけるような気がして、気持ちがいい。なんだかこのまま眠ってしまいそうなぐらいだ。ふう、とこぼれた吐息が反響する。
「お客さん、かゆいところはございませんかー?」
「床屋ちゃうねん」
 侑の指が膝裏を押してから、湯を波立たせて手が反転する。腿の表側に親指を置くように両手が腿を掴む。少ない肉を揉みながら、これもまた腿の付け根に向かって手が滑っていく。付け根に近づくということは――。
 治は閉じていた目をはっと大きく見開き、慌てて侑の手を掴んだ。
「え。何?」
「あ……アホ、ふざけすぎや」
「はァ、何が? 侑くんはめっちゃ真面目に――あ」
 ようやく自分の手が向かっている先に気が付いたのか、侑の頬が引きつる。みるみるうちに顔が赤くなったかと思うと、治の手をすり抜けた手が腿からぎこちなく離れていく。
 なんとなく気まずい心地になって、ふたりは互いに目を逸らし、膝を抱えて大きなからだを小さくして湯に浸かっていた。頭がゆだる。ぐらぐらして、意識がぼうっとしてくるのを感じるのに、なんとなく上がれない。
 静まり返った浴室で、ちゃぷちゃぷと湯が揺れる音だけがやけに大きく響く。


2022.04.20