nakaminai

おとなになるということ

 常夜灯の弱々しい橙色の照明によりうすぼんやりと照らされた、物心つく頃からふたりで生活している共同部屋。二段ベッドの下段は上段のおかげで影に覆われ、弱々しい照明はほとんど意味をなしていなかった。
 侑の寝床は上段のベッドだが、いまは二人そろって寝間着のトレーナーに下着という格好で下段に収まっていた。先ほどまで肌を重ねて火照っていたからだもすっかり熱が引いて、下着しか身に着けていない下半身が寒いぐらいだ。早く足元でぐちゃぐちゃにまるまっているはずの暖かいスウェットパンツを穿きたいところだが、侑の腕に背中から抱き枕のように抱きすくめられていて治は身動きが取れずにいた。頭の後ろで侑が「はあー」とおおげさなため息をつき、うなじに生ぬるい湿った体温を感じた。侑は部屋の外に声が漏れないよう、小声で続けた。
「おかん、泣くやろか、孫見せてやれん言うたら」
 唐突に何を言いだすのやら、片割れながら侑の思考回路はいつだっておかしい。治は閉じていたまぶたをゆっくりと持ち上げた。振り向きもせず、暗い色に塗りつぶされた壁に向かって口を開いた。
「そら泣くやろ。孫見せてやれんっちゅーか、息子ふたりがこっそりキンシンソーカンしてんねんから」
「おまえ……鬼か!」
 ぺしん、と軽く後頭部が叩かれる。痛くはないけれど、単純に鬱陶しい。治は腰から上をよじって、じろりと侑を睨んだ。
「ツムが聞いてきたから答えただけやろ」
「いや、そうやけど」
「こないだ、彼女おらんのかって聞かれたしな」
 治がこともなげに言うと、侑が「えっ」と素っ頓狂な声をあげた。
「マジで? 俺聞かれてへんで」
「あー……ツムはアホやからな。彼女おるわけないと思われてるんやわ、たぶん」
「は? 俺のほうがイケメンやからモテるやろ」
「顔一緒やっちゅーねん」
 指の背で軽く侑のこめかみを叩く。痛くもないくせに「いたっ」と悲鳴が上がった。地声より少し高い、甘えているときの声だ。叩いた指の背で、叩いたこめかみをすりすり撫でてやると、今度は「フッフ」と上機嫌な笑い声があがった。せわしないやつだ。治は抑揚のない声を吐き出した。
「だいたい、孫見せれんかはわからへんやろ。見せれるんちゃう? 俺らまだ高校生やん」
 人生は長いのだ。17年しか生きていないのだから、孫を見せられるかどうかなんて決めるには早すぎる。まだ結婚すらできない歳だ。しかし、侑は納得しなかったようで、怪訝そうに眉をひそめた。
「は? サム、何言うてんの、俺らが大人になったところで男は子ども産めんのやで」
「ツムこそ今更何当たり前のこと言うてんねん。女性しかなんか、アレや――出産できんやろ、知ってるわ、それぐらい」
「は?」
「は?」
 会話が噛み合わない。暗がりのなか、ふたりは互いの真意を探るようにじっと瞳を見合わせた。沈黙を破って先に口をひらいたのは治だ。頬を引きつらせて、侑を流し見る。
「……え、なに? 自分、もしかして、大人になっても俺と『こんなこと』しとる前提?」
 それを聞いた侑は口を歪め、不機嫌そうに犬歯をむきだした。
「はァー? そうですけど? サムと『こんなこと』一日中やっても子どもできんやんかって話やったんですけど。むしろサムは俺と別れて他の女と結婚しとる前提なん?」
「いや、前提とかやないけど、わからへんし。ジジイになるまでずっと一緒におるほうがむずない?」
 自分たちと同じように双子として生を受けた人生の先輩方だって、当たり前のように各々のパートナーを見つけて各々の家庭を築いている人たちのほうが多いはずだ。双子だからといって離れ離れになれば死ぬわけでもあるまいし――治にとっては、まだ考えたくないことだけれど。
 一般論を語っただけのつもりだったのだが、侑はやはり気に食わないらしく、信じられないとばかりに鼻を鳴らした。
「そうかぁ? えー、薄情やな、サムは。俺は悲しいわ」
「うっさい。考えてみい。クラスメイトの女子がおるとするやろ、その女子が『ウチ、卒業したら今の彼氏と結婚すんねーん』言うて……」
 ご丁寧に裏声を使って小芝居を挟むと、侑が鼻で笑って遮った。
「は? んなわけあるかい、どーせ卒業するまでに別れんねん、そんなもん。別れて恥かくんやから言わんかったらええのにな、アホらし」
 薄笑いを浮かべた侑の鼻先に、人差し指を突きつける。侑はぱちくりとまたたいて、治の指先を見つめた。
「せやろ、そう思うやろ。ツムが言うてんの、それと一緒や」
 指先から治の顔にぱっと視線を移し、眉をひそめ、トラが吠えるように大きく口を開けた。
「はァー? 何言うてん、一緒ちゃうし! 俺は別れへんし!」
「声でかいわ、アホ!」
 治は声をひそめて、腹から大声を出した侑の口に手のひらを押し当てた。
 親に聞こえて「静かにしいや」と部屋に怒鳴りこんできてこの状況を見られたら、非常にまずい。肩から下は布団に隠れているとはいえ、高校生にもなって男同士、同じベッドでくっついて寝ているのはおかしくないだろうか。兄弟であり恋人でもある治と侑にとっては当たり前のことだから、自分たち以外にとっての「普通」がよくわからないが、怪しい挙動を見せないのがいちばんである。
 侑が治の手を口元から引きはがしたかと思うと、ぴたりと治のボディラインに沿うようにくっついていたからだをも離した。侑の眉間には不機嫌もあらわに深々としわが刻まれていた。
「あー、無理。サムのせいや。見損なったわ。もう寝る。ボケ、アホ、クソサム、ゲスの極み」
 思いつく限りの罵倒を並べて、侑はごろりと寝返りをうつ。治も追いかけるように寝返りをうった。今度は治が侑の後頭部を眺める、逆の格好になった。
「最後のはクソツムに言われたないわ。寝るんやったら上戻れや」
 肩を掴んで揺すぶっても、侑はぐらぐらと揺れるだけで、無視を決め込んでいる。しんと静まり返ってしまった暗い部屋で、治は「はー」と深いため息をつく。さっきまで侑にされていたように、治は侑の胸に手を回し、背中から片割れのからだを抱きすくめた。
「なあ、ツム。何十年生きるうちの、まだ17年やで。ツムやって、これから先絶対好きな女子のひとりやふたりできるよ――ツムはモテるしな」
 諭すように、優しく撫でるように、静かに、ゆっくりと言葉を紡ぐ。紡ぐごとに、自分の心がジャガイモの皮みたいにピーラーで薄く剥がされ、はらはらと排水口に流されていくような気がした。
 まだ見ぬ未来の光景が頭に浮かぶ。大人になった侑と自分。大人になってもツムは男前やなあ。それは片割れとして誇らしいけれど、いつまでも手を繋いで一緒に歩いているわけがない。侑の隣には、別の誰かがいる。侑と別の誰かの背中を遠くから見つめて、じくりじくりと心が鈍く痛む。
 我慢しきれなくなったのか、侑がぐるりとからだをよじって振り返る。
「うっさいわ! そんなん、おまえが決めんな。俺はずっとサムが好きで大事やから、サムと生きるつもりやったのに。クソブタ、もう二度とトス上げてやらんからな」
 小学生か。侑らしい悪態に、思わず肩の力が抜けて小さく笑う。
「アホか、上げろや、トスは関係ないやろ。プレーに私情挟んだら北さんに『それで試合に勝てんの?』て真顔で言われんで。せやから、今はそう思てても、そんなん、わからへんやんって言うてんねん」
「わかるわい、ボケ!」
「わからへんて。わからへんこと、言い切るな。寂しいやんか――今はそんなこと言うて喜ばされたって、何年か後に、やっぱり好きな人できました、結婚しますわ、はいさよーなら、なんて言われたら。そしたら、正月とか、お盆とか、そんなんしかツムに会えんようになるん……寂しいわ」
 侑がずうっと一緒に生きてくれるかもなんて、期待させられたくない。どうせ離れ離れになるのなら、期待なんてしたくない。長い人生で、いましか紡げない楽しくて幸せな思い出を、誰よりも大切な片割れと重ねている――治はそう思いたかった。そうやって割り切って侑に触れるほうが、将来、侑が治とは正反対の華奢で美しい女性をパートナーとして選んだときに傷つかなくて済む。
 侑が寝返りをうつ。向かい合わせになって、治の顔を両手で挟んだ。
「……アホサム! せやから、ずうっと一緒におったる言うてるやろ。小難しいこと考えんと、素直に喜べや。それとも嬉しないんかい」
 鼻先が触れそうな距離で、侑がささやく。侑の瞳から逃げるように、治はゆらりと目を逸らした。
「……でもわからんやろ、将来のことは」
「あー、もう、さっきから俺の気が変わる話ばっかりしとるけど、サムはどうなんや。俺以外の誰かのこと好きになるんか。女子のひとりやふたり」
 治はんん、と唸って目を閉じた。学校にだってかわいい女の子はたくさんいる。お、かわいいなと目で追ってしまうこともある。やけに触ってくる、距離の近い女子もいる。しかしどの瞬間も、治の心が動いたことはなかった。ただただ別の世界の住人のような気がしてしまう。侑ならば、こうやって目の前にいるだけで良くも悪くも心を揺らしてくれるのに。まぶたをひらくと、侑が眉を寄せてじっとこちらをまっすぐに見ていた。治はふっと息を吐きだして小さく笑った。笑ったのになんだか涙が出そうな気がして、ごまかすように目を擦った。
「どうやろな? ……ならんと思うわ」
「俺もおんなじやんか。他のやつなんか好きにならんと思っとるんやから、サムがどんだけ否定したってしゃーないやん。サムとしかおんなじ空間で暮らしたないし、こうやっておんなじ布団に入りたないし、キスしたないし、エッチしたない。信じられへんの?」
「まあ、おまえ、すぐ嘘つく人でなしやしな」
「おい、ちょっと待ってくれや、ええ感じやったやろ、さっきの」
 侑がじっとりと目を細めて、治の頬をぺちぺちと叩く。「やめえや」と侑の手を払いのける。
「冗談や。ツムが嘘ついてるときとついてないときぐらいわかる」
「照れ隠しか。たまにめんどくさなるな、サムは」
 照れ隠しなんて指摘されると、おおむね間違っていないものだからますます気恥ずかしさが膨らんでくる。治は侑の頬をぺちんと叩き返した。
「うっさいな、俺はツムみたいに単純な思考回路してないねん」
「フッフ。まあ、ええよ。めんどくさいこと言う度に、俺がサムのことどんだけ好きかわからしたるわ」
「それもなんかムズムズするなあ。胸焼けしそうやわ」
 侑と鼻先を寄せ合って笑い合う。不意に、掛布団の下で脚の上に何かがのしかかってきた。侑の片脚だ。治の片脚をひっかけたかと思うと、侑の方へ引き寄せられる。すり、とふくらはぎをすり合わされて、ほんの少し心臓が跳ねる。侑がもともと近くにあった顔を更に近づけて、唇が触れそうな距離でささやいた。
「なあ、もう一回やる?」
「……今日はもうええ。明日も練習あるやん」
「えー、なに、もうバテたん? 大丈夫やろ、やろうや」
「なんか今日はあかん。なんか、いらんこといっぱい言うたから、またいっぱい言うてまいそうや」
「ツム大好き、とか?」
「んー、そうかも」
「ほななおさらやろうや、言うてほしいわ」
 侑がらんらんと目を輝かせる。もうすでに、余計なことを言ってしまった。治が後悔し始めたと同時に布団の中で、今度は侑の手がトレーナーの中に入ってくる。治はその手を掴んで引っぺがした。
「別に今日せんくても、明日も明後日も明々後日も、来年も再来年も十年後も一緒におるんやろ。おまえが言うたんやんか。がっつかんでも腐るほど時間あるやん。猿か」
 掴み上げられた手はそのままに、侑が面食らった顔をしてまたたいた。それから少し照れたようにすんと鼻をすすって、素直にこくりと頷いた。
「……おん。いや、やかましわ、誰が猿や」
 律義なツッコミを無視して、治は深く息を吐きだして身じろいだ。
「しゃべりすぎて疲れた。眠いし、今日はツムを抱き枕にして寝たいわ」
「なんやそれ、ずるっ。じゃあ俺も抱きサムで寝るわ」
 侑の背中に手を回して抱き寄せると、侑も同じように治を抱きしめる。ぎゅうぎゅうにくっつきあって、上から見た図を想像したらなんだか馬鹿みたいだった。思わずぶふっと声を漏らして笑う。
「抱きサムて。抱きツムがなんか言うとるわ」
「なんや、パクリか」
「はよ寝えや。おやすみ!」
 侑の首元に頭突きして、ぐりぐり押しつける。侑が「ぐえーッ」とつぶれたカエルみたいなわざとらしい悲鳴をあげた。
「おやすみー……」
 侑の声を最後に、早く眠りにつこうとじっとしていたら不意に侑が吐息とともに笑う。次の瞬間には、額にやわらかな感触がむにっと押し当てられる。ほんの少し前までもっとすごいことをしていたくせにそのささやかなキスがひどく照れくさくて、治は目を閉じたまま狸寝入りをした。
「フ、寝るん早ッ」
 侑の笑い混じりの囁き声。こうして胸をくっつけ合っているいまならば、暴れ出した心臓の音でまだ起きていることを知ったうえでからかわれているような気がする。それでもなお狸寝入りを続ければ、侑もとうとう静かになった。規則正しい寝息だけが聞こえる。そうっとまぶたをひらけば、目の前に侑の無防備な寝顔があった。
「ツム、寝たん?」
 返事はない。先に寝とるやんけ、と心の中でツッコんで、侑の唇の端にそうっとくちづけた。ちゅっと軽やかなリップ音を立てて離れ、再び侑の首元にぐりぐりと頭を押しつけて目を閉じる。あたたかくて心地よい、溶け合うような体温と鼓動のリズム。当たり前のことだが、「一緒にいるのだな」と安心する。混ざり合った互いの鼓動が子守唄のようで、包みこむぬくもりはやさしくて、徐々に意識がゆらゆら、ふわふわと漂い始める。
 ――明日の朝は寒さで目ぇ覚めることはなさそうやなあ。ちゃんと起きれるんやろか。
 ほんの少しの心配がよぎったが心地よさに呆気なく敗北し、治は意識を手放した。その夜は夢も見ずに、侑に揺り起こされるまで眠った。


2022.04.22