nakaminai

好きなひと

 放課後。今日は授業中、いつにもましてぼんやりしていた頭がこの時間になってやっと覚醒しつつある気がする。
 さてようやくボールに触れると体育館へ向かおうとした宮侑は教師に引き留められ、テストの成績と授業中の態度と宿題をしてこないことについて説教され、B5判プリント5枚にわたる漢字の書き取りを課せられた。終わったら職員室に持ってこいという。
 ――俺は男バレのレギュラーで、将来有望株セッターやぞ。勉強なんかできんくたって、関係ないやんけ!
 そう言ってやりたいところだが、学校と担任には関係ない。学生でいる以上は、ほかの生徒と同じように同じだけの勉学を強要される。ほかの生徒はバレーなんてしてないし、全国大会に進んでもいない者だっているのに、変な話だ。納得いかない。
 クラスメイトの銀島は、すごすごと席に着いて頭を抱える侑を見てゲラゲラ笑うと「はよ終わらしや」とさっさと部活に行ってしまった。薄情なやつだ。彼もたいして成績が良いわけでもないが、侑と違って越えてはいけない赤点というラインを弁えている。
 まだ半分以上の生徒が教室に残ってざわざわしている。ひとり机にかじりついている侑をクラスメイトたちが面白がっていたのも最初だけで、数分と経たないうちに誰も侑のことを気にかけなくなっていた。
「それ、なんしとん」
 けだるそうな低い声。プリントの文字列からほんの少し視線を上にずらすと、男子生徒の制服の胴体が目に入った。顔を上げる。顔を見なくても、誰かなんてわかっていたけれど。
 双子の片割れの、宮治だ。部活前の腹ごしらえに、片手にあんぱんを持っている。
「おうおう、やっとるなあ」
 侑が顔を上げたことで、隠れていた紙面が見えたのだろう。感心したような、小ばかにしたような声音で笑った治は、のん気にあんぱんをかじった。
「なんや、冷やかしか!」
「フッフ」
「おかしない? 漢字なんか書けへんくて困ることあるか? スマホが勝手に変換してくれるやろが!」
「ツム、自分の名前は漢字で書けるもんな」
 治は侑の前の席に横向きに座った。
「せやで。おとんとおかんとサムの名前も漢字で書けるし、住所も書けるわ! 十分やろ」
 ぷりぷりと憤慨しながら、「おんなし漢字ずっと書いとったら不安なることない?」「わかるわ。簡単な漢字とか逆に不安なる」なんて言い合いながら、プリントにひたすらシャープペンを走らせる。やけくそのように右肩上がりの漢字が紙面に量産されていく。
 教室内の生徒は徐々に少なくなり、とうとう侑と治のふたりきりになってしまった。早く終わらせて練習に合流しなければ。侑は黙々とペンを走らせる。とっくにあんぱんを食べ終わった治は、ふわりふわりと風に揺れるうすっぺらいカーテンをぼうっと眺めていた。
 そこではたと疑問が浮かぶ。
 
 ――サムのやつ、何しに来たんやろ?
 
 もうそろそろ練習が始まる時間だ。今からダッシュで部室に行って着替えれば――ぎりぎり間に合うだろうか。遅刻して、さらにそこに特別な理由がないとなると絶対に北の正論パンチが飛んでくる。治はぼんやりしているから、いまが何時か気づいていないのかも。「そろそろ行かなやばいんちゃう」と言ってやったほうがいいだろうか――そう考え始めた頃、治が口をひらいた。
「あんなー、好きなひと、できてん」
 いつもの穏やかな声音で発せられたことばに、思わずぴたりと手が止まり頭は真っ白になった。
 それ、いま言うん!? とツッコむべきなのだろうが、自分でも信じられないぐらい、治の一言で一瞬のうちに胸のなかがぐちゃぐちゃに搔き乱されていてそれどころではない。
 侑はうつむいてプリントを見つめたまま、平静を装って口をひらく。無意識に指先に力が入り、シャープペンの芯がパキッと折れた。侑は慌ててペンの背をカチカチ押して芯を押し出す。てのひらはじっとりと汗ばんでいた。
「……へえー。誰? 俺も知っとる?」
 間。うつむいたまましばらく待ったが、廊下から生徒の談笑する声が聞こえるばかりで、治の声は発せられない。
「……なんや、そこまで言うて、言う気ないんかい」
 侑はぎこちなく笑って顔を上げた。瞬間、治とぱちりと目が合う。きらきらと小さな星が散ったような、きれいな瞳。治の瞳とは、こんなふうにきらめいていただろうか。思わず息を止めてその瞳に魅入ってしまう。
「ン」
 前の席の机に置かれていた治の手が動く。唯一たてられた人さし指が、侑に向けられる。人さし指という名の通り、侑という人間をまっすぐにさしている。
 
 ――ということは、つまり。
 
 侑の頭のなかで、ようやく一連の流れが整理できた。
 脈拍が次第に速くなる。頬が熱い気がする。目玉が飛び出そうなほどに大きく目を見開く。ぱかりとひらいた口から声が発せられるのに、だいぶ時間がかかった。
「……は!?」
 侑の間抜けな声を聞いて、治はようやく、悪戯が成功した子どものようににたりと笑うと席を立った。
「ほな、そろそろ練習行くわ。はよ終わらせえや、それ」
「はあ!? ……おいっ!」
 思わず大きな声を出し、椅子を跳ね飛ばして席を立ったが、治は振り返ることもなく、さっさと教室を出て行った。ひとり残された侑は呆然としながら、床に倒れた椅子を元に戻し、崩れるようにすとんと腰を下ろした。机に転がったシャープペンを握り直す気にならない。侑は深く息を吐きだして、天井を見上げた。
「あいつ、どないせえっちゅーねん……!?」
 金髪をがしがしとかき混ぜる。
 今朝も昼休みもいつも通りだった。なんなら、いまさっきの告白――と言っていいはずだ、一般的に――までは、いつも通りだったのだ。もしかして、夢でも見ていたのだろうか。頬をつねってみると、しっかりと、普通に痛い。夢じゃない。それに考えれば考えるほど、治と視線がかち合った一瞬が、彼の瞳のきらめきが鮮明に脳裏によみがえるのだ。これが現実でないはずがない。
 ようやく握り直したシャープペンをプリントに押し付けて手を動かす。膨大な量の漢字を書かなければ、体育館に行けないしボールに触れないのだ。侑はバレーをするために学校に来ていると言っても過言ではないのだから、体育館に行かないわけにはいかない。体育館に行けば、当然バレー部の仲間たちと顔を合わせる。きっと漢字の書き取りを課せられたことは監督、コーチ含め全員に知れ渡っているし、北には淡々と説教されるし、仲間たちにもこれでもかというほどイジられる。そして、治は――自分は治とどんな顔で、何の話をするのだろう。
 
 治、治、治……4回めの「治」を書いたところで、侑はハッと我に返り、消しゴムで治の字をゴシゴシとこすった。
「アカーン! なんかめっちゃ頭痛い!」
 侑は机に突っ伏した。ごんごんと内側から頭蓋骨を叩かれているように頭が痛い。顔が熱い。頭のなかが茹だるようにグラグラする。どうも、具合がおかしい。額に触れると、尋常じゃない温度が手のひらに伝わってきた。しまった。ぼろぼろにひび割れた「体調管理」の4文字が頭に浮かぶ。
 
 そこからはほとんど記憶がない。朦朧とした意識のなかでひたすらプリントに漢字なのか記号なのか、自分でもわからなくなった図形を書き続け、プリントの3枚目が終わったところでリタイアした。よろめきながら職員室に行くとよほど侑の顔色が悪かったのか、漢字の書き取りを科した当の教師は「早く帰りなさい」と帰宅を促した。
「先生のせいで居残りしとったんやろ!」
 ――という抗議すら頭に浮かばず、いまの侑には噛みつく元気がなかった。
 
 追い出されるように学校を後にした侑はいつのまにか家に帰り、母に冷却シートを額に貼られ、ベッドの下段に倒れ込んだ。そのまま気絶するように眠った。
 
 ◇
 
 トントントンと階段を駆け上がる音が近づき、侑はゆっくりと目を開けた。部屋の照明は消えていて暗いが、開け放たれた入口から廊下の照明が頼りなく差し込んでいる。この足音は治だ。部活が終わって帰ってきたらしい。そういえば、無断で部活を休んでしまったことを思い出す。明日、どうすれば北の説教を回避できるだろうと考えながらまた目を閉じかけたところに、治の声が部屋に響いた。
「ツム、寝とるんか」
「おー……起きた」
 侑は目を閉じたまま答えた。
「電気、一瞬だけ点けてええか?」
「目ぇ覚めたし、点けといてええよ」
 パチ、と照明のスイッチを切り替える音。室内はパッと明るくなったが、今日の侑はベッドの下段にいるため目を刺すようなまばゆさは感じなかった。普段寝床としている上段は、目を閉じていても照明がひどく眩しいのだ。侑は目を開けて、のそりとからだを起こした。床にどかっとバッグを下ろした治はベッドに歩み寄って腰をかがめ、侑のいる下段をのぞきこんだ。
「……熱あるん」
「あー……なんか、急に出てん……」
 額に手を当てる。冷却シートの毛羽立った感触と、貼られた直後はひやりと冷たかったはずの温度は今やぬるくなった風呂のような気持ち悪さだ。
「北さんに連絡してへんやろ。明日どやされんで」
「いや、マジでそんな余裕なかったもん、しゃーないやん!」
「なんで俺のベッドで寝てん」
「頭くらくらする言うたら、おかんがはしご危ないから下で寝ろて……サム、今日は上で寝てや」
「まあ、ええけど……」
 治はため息をついて、ベッドから離れた。床に放り投げたバッグから、制服やタオルや弁当箱なんかを引っ張り出している。不意に思い出したように振り向いて、薄ら笑いを浮かべて侑を見た。
「知恵熱ちゃうん。頭使いすぎて」
「……は!?」
 心臓がドキッと跳ねる。
 侑の頭に、放課後の教室で聞いた「好きなひと、できてん」という治の声、甘やかな瞳でこちらを見つめる治の顔が浮かんだのだ。
 たしかに頭はたくさん使った。治のことを思考回路がショートするまで考えたのだ。試合中の駆け引きでフル回転する以上に脳を働かせた気がする。
 治は侑のおおげさな反応を怪訝そうに眺めて肩をすくめた。
「いや、自分、ようけ漢字書いてたやん」
「ああ、なんや、そっち」
「そっちて何やねん。赤ちゃんちゃうねん、てツッコむとこちゃうん。俺がスベったみたいやろ」
 治が不服そうに口を尖らせたが、侑の耳にはろくに入ってこなかった。侑は寝癖のついた金髪をくしゃくしゃ掻きながら、ぽつりとつぶやいた。
「サムが教室で、最後に言うたことかと思て――」
「あ、れは……」
 治の頬が引きつり、目元までかっと赤くなる。ようやく動揺した顔を見られたと、少し気を良くした。お互いに、やられっぱなしでは気が済まないたちだ。侑はわざとらしくため息をついた。
「おかげでめっちゃ頭使たわ……どういう意味? とかなんで今? とか部活でどんな顔したらええんっちゅーかそもそもおんなし家に住んでるやん! とかどんな顔したらええねん、とか。……いつから、その、好きやったん?」
 おずおずと治の顔色をうかがいながら尋ねると、彼もまた侑の顔色をうかがいながらあごを撫でた。
「……わからへん。気づいたんは最近、やけど……おまえがバレーに夢中になっとる間のどっかや」
 治とともにバレーを始めてから、侑よりも評価されていた治を追い抜きたい一心でひたすらバレーに打ち込んできた。同級生たちのように恋愛になんてかまけている暇はない。一分でも一秒でもボールに触っていたかったし、治も当然侑に負けたくないはずで、侑はライバルで、バレーのこと以外考えていないはずだと思っていたのだ。
 しかし、治の突然の告白のおかげで、侑もわかったことがある。
「な、ちょぉ来て」
「なんで?」
「ええから、ベッド上がれ」
 手招きすると、治は渋々頭を屈めてベッドに乗り上げた。侑が壁際の柵にもたれて座ると、治もその隣に座った。照明が点いていても、下段のベッドは薄暗い。妙に気まずい沈黙が流れる。黙って俯いていた治が顔を上げ、侑に顔を向けて口をひらく。侑もまた、同じタイミングで治に顔を向けて口をひらいた。より大きな声で相手の声を遮ったのは、侑だった。
「あんな! お……俺も、サムのこと好き!」
 治はぽかんとひらいた口を一旦閉じ、眉を下げた。どこか憂えた瞳がゆらりと揺れて侑から逃げる。侑が想像していたのとまるで反対の反応だった。治がため息と同時にまた口をひらく。
「……ほんまに? 意味、わかってんの。ツムのそれは家族やから好きってことちゃうん」
「は? なんやねんその態度、ここ、喜ぶとこちゃうんかい。……わからんけど――」
「わからんのかい」
「最後まで聞けや! こう……わからんけど! 家族を好きなんの上に、プラスで別の好きが乗っかっとる。アランくんとか、銀とか角名とか、そういうのの好きとはまたちゃうヤツ……サムにしかないヤツやねん。そう思ったら、なんか、教室で、サムが俺のことまっすぐ見て指さしてきたんもドキドキするし、今こうやって、向かい合ってんのもドキドキするし、なんか、ここサムのベッドなんやなあって思ったらドキドキするし……要するに、おんなし『好き』やと思うねん」
「フッ……はは、なんやそれ」
 治のからだがかしいで、顔が近づく。思わずびくと肩が跳ねてぎゅっと目を閉じる。ひたり。冷却シート越しに額がくっつく。上目遣いの治と、間近で目が合う。灰色の瞳がきらきらと輝いていて、どきりと胸が弾む。
「熱、まだあるん?」
「あー……おん、多分。ちゅうか、わからんのかい」
「フッフ。わかるかと思てんけど、おでこ同士じゃ思ったよりわからへんもんやな……ツム、冷却シート貼っとるし。それとも俺も顔熱いってことなんかな」
 治がくすぐったそうに、照れくさそうに笑う。同じ顔なのに、片割れはこんなにかわいらしかっただろうか。ドキドキする。落ち着かなくて、侑は目を泳がせた。
「なあ、サム、顔近い」
「せやなあ、ツム……近いわ」
 ふたりそろって吐息を漏らすように笑い、どちらからともなくくちびるを重ねた。くちびるが触れ合うだけの拙いキスだった。治のくちびるは想像したよりも柔らかくて、鼻の奥で漏らした吐息交じりの声がなんだか色っぽかった。離れるのを惜しむようにゆっくりとくちびるを離して、治の瞳をのぞきこむ。
「こういうの、したいって思うってことは……おんなしやろ、サムの『好き』と」
「……ファーストキスや、いまの」
 治がぱちぱちと瞬いて、自分のくちびるを触る。侑も同じように、自分のそれに触った。
「そんなん、俺もやん……」
 顔を見合わせて笑う。それから、治が侑をがばりと抱きすくめた。部室で一緒に使っている制汗剤の、シトラスのわざとらしいまでの甘酸っぱい香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
「しゃーないな。今日は俺が世話したるわ。知恵熱出たん、俺のせいらしいしなあ」
「……せや、サムのせいや。今年一年分ぐらい頭使たわ」
「フッフ」
 まるで子どもをあやすように、からだを揺らしながらぽんぽんと背中を叩かれる。侑は治の肩にあごを載せて、されるがままにゆらゆらと揺られていた。
「ツム」
「なん?」
「知恵熱て、生後半年ぐらいの赤ちゃんが出す熱のことや」
「おまっ……どういう意味やねん、クソサム!」
 ドスッと治の背中をグーで叩く。「本気で殴るなや、痛いわ」と訴えるくせに、耳元で聞こえる治の声音はどこか優しくて嬉しそうだ。
 これが「好き」ということなのだ。たまらなくなって治のからだをぎゅっと抱きしめると、彼もまた、同じように侑のからだをぎゅっと抱きしめてくれた。上がった体温のせいか暑苦しかったが、いまこのときはどうにも離れがたいと思った。


2022.05.16