nakaminai

濡れねずみのダンス

 パタ、パタ、パタパタパタ――。昼過ぎからじめっとした灰色に覆われていた空はどんどんと鈍く暗い色になり、陽が沈んでますます暗くなる頃になってとうとう雨が落ち始めた。バスの窓ガラスを滴が濡らしてまだら模様を描いていく。
「雨降りだしたなあ」
 中央よりもやや後ろの二人掛けのシートの窓側に座った尾白アランが外を眺めて言った。後ろの座席の窓側の治、その隣の侑もそろって窓を流れる雨粒を見た。
「ホンマやん、最悪や」
「家帰るまでもつか思たのに。折りたたみ傘って、ひらくんはええけど閉じるん面倒くさいよな」
「わかるわー。俺、折りたたみ嫌いや」
 治とアランのやりとりを眺めながら、侑が眉をひそめた。
「傘持ってへんわ、俺」
「なんで?」
「なんで?」
 アランと治がぎょっとして侑を見る。朝のニュース番組で天気予報士の若い女性が、今日は昼から雨模様と伝えてくれていたのだ。むしろ今まで雨が降らなかったことで拍子抜けしていたぐらいだったのに、侑ときたら。治は目を細め、じとりと片割れを見た。
「朝、一緒に天気予報見たやん」
「せやった?」とぼけた顔の侑がふいと治から目を逸らす。
「ほんで、昼から雨なんやなあ傘持って行かなーめんどくさーって言うたら『ホンマやなあ』言うたやん」
「ええ、せやったっけ?」侑が目を逸らしたまま、首をかしげる。治は眉をつり上げて侑のあごを掴み、両頬に指をめり込ませた。ひょっとこみたいに唇を突き出した侑に顔を寄せて、他の乗客の迷惑にならないように声を抑えて怒鳴る。
「そうやん! しかもお前、俺が傘持っとん見て、なんも思わんかったんかい」
 治の足の間にはビニール傘が挟まれている。朝からずっとぶらつかせていたこれが目につかなかったはずがない――いや、バレーボール以外に関してはポンコツの侑のことだから、ないとは言いきれないが。
 侑が治の手を剥がして、圧迫されていた頬をさする。それから微塵も悪びれずにいつもの調子でへらりと笑った。
「……思わんかったな。思てたら、ちゃんと傘持ってきとるやん」
「ホンッマ腹立つわ、お前の顔!」
「顔は自分と一緒やろ! ええやんけ、たまにはこんなこともあるわ」
「たまにやないから腹立っとるんですけど」
 侑が傘を持ってこないのは珍しいことではない。たまに治が気づいた時には「忘れとるぞ」と傘を持たせてやるのだが、治だって常に侑の面倒を見てやっているわけではない。ほったらかしにしておくと、十中八九、家を出る時さえ雨が降っていなければこうして傘を持たずに出てくるのだ。
「せやけど、朝とかってなー、眠いし、意識モーローとしとるやん。そんなときに天気予報されてもあかんやん、普通……」
 侑が神妙な顔をして、悔しそうに言う。正直、言っていることの意味は1ミリもわからないのだが。宇宙人でも見るように、治は眉をひそめて訝しげに侑を眺めた。
「お前、何言うてんねん……?」
「侑、家出る前に『今日は傘持っていきや』って教えてくれるんが天気予報なんやで」
 前に向き直ったアランが呆れたため息交じりの皮肉もなんのその、侑は目を輝かせていた。
「おお、うまいこと言うわ、アランくん」
「いや、当たり前のこと言うただけやねん」
「あー、サムがおってよかったあ! 仲良く相合傘で帰ろなー」
 にこにこ、ただの微塵も悪びれるとか、申し訳ないとかそういう感情のない顔で治の不機嫌丸出しの顔をのぞきこむ。文字通り血を分けた片割れながら、羨ましいぐらいに図太い神経をしている男だ。治はうなだれて、はー、と大きなため息をついた。
「クッソ腹立つわ。ひとりでびしょ濡れになって帰れや。もうホンマ、ホンッマにそういうとこやねん、ホンマに信用できん、このポンコツ」
「まあまあ、雨に濡れて風邪ひかれても困るやろ。侑が風邪ひいたせいでまた信介にどやされたら、俺も治もええ気せえへんやん。入れたれや、傘ぐらい。仲良うするんやで! ほなな」
 バスが停車して前方の自動ドアが開く。尾白がさっと立ち上がったので、侑はぶんぶんと無邪気に手を振った。治はというと、いつも侑を自分に押し付けて一足先に逃げ出す尾白の大きな背中をじとりと恨めしそうに睨みつけるのだった(治は侑と同じ家に帰るのだから、押し付けられるのは仕方のないことだけれど)。
「お疲れー、アランくん! また明日!」
「お疲れー……」
 それからは、侑も治も無言だった。ただ黙って、侑が治の肩にもたれかかって治の手を触ってくる。ねちっこく手の甲を撫でて、指を一本一本、手に包んですりすりと撫でる。甘やかな愛撫に、胸の奥のやわらかいところがひりつくような、心地よさとくすぐったさの間ぐらいの感じ。治は目を細めて、絡み合う指先を見つめていた。
 ――こんなところでなんや、鬱陶しい。ムラムラしとんか?
 ちらと横目で片割れを見るも、目は合わない。侑の視線はじっと指先に向かっている。もしかして今日は「やるぞ」というサインか? 考えているうちに、車内の冷房は効きすぎているぐらいに稼働しているはずなのに顔が熱くなってきた。そのくせ、侑は何も考えていないような顔をしているから腹立たしい。車内にいるうちは好きにさせてやるが、外に出たらこの調子に乗っている片割れを絶対に突き放してやろうと思った。

 自宅の最寄りのバス停でバスが停車する。さっきまで小降りだった雨は大雨に変わっている。日頃の行いとはいうが、侑とちがってひとに優しく、慎ましく生きているのになんだろう、この仕打ちは。いくら善行を重ねたところで「人格ポンコツ野郎」の侑と一緒に行動しているのだから、日ごろの行いの善し悪しとしてはプラマイゼロどころかマイナスに振り切っていても仕方ないということか、と思い至って治は何度目かのため息をつく。
 嘆いたところで突然雨が止むわけもない。雨の中、さっきまで治にべったりだったはずの侑がさっさとバスを降り、雨に濡れながら振り返る。治はバスのステップで足を止め、侑を見下ろしていた。焦れた侑が治を見上げて手招きする。
「なんや、おい、はよ降りてきて傘させや! バスにメーワクやろ!」
「うるさいねん、それがひとにものを頼む態度ですかあ!?」
「傘さしてクダサイ!」
 朝必死にセットした髪をへたらせながら、やけくそのような懇願。ひとまず勘弁してやるかとしぶしぶとビニール傘をひらいてバスから降りる。侑が治の肩にぶつかるように傘の下に入ってくると同時に背後で扉が閉まり、バスが走り出した。バタバタと傘に叩きつける大粒の雨が耳障りだが、代わりに一緒に傘の下に収まっている侑の声は妙に近くで響くように聞こえた。ほんの十秒ほど雨に濡らしてやっただけだというのに、侑の金の毛先からぽたぽたと滴が肩に落ちてくる。
「はー、ホンマ、雨ダッル。傘、邪魔くさいわ」
「ひとに傘持ってもらっといて何言うてんねん、クソボケ」
「腹減ったなあ、今日のめし、なんやろな」
 露骨に話を逸らした侑が治の腰を抱いて歩きだす。
「歩きにくい、離れろ」
「いやや、濡れるやん。はよ帰ろ」
 治はため息をついた。こういうところも腹が立つのだが、腹が減っているのは治も同じだ。夕飯は肉がいい。牛丼、豚肉の生姜焼き、ハンバーグ、ステーキ、焼き肉――妄想を広げながら、アスファルトを流れる雨水を跳ね上げながら、家路をたどる。

 大通りを逸れて住宅街に入る頃には、カップルのようにくっついて歩くのも飽きたのか、侑は「傘持ったる」と治から傘を奪い取り、変にふざけることもなくおとなしく前を向いて歩いていた。この時間帯の住宅街は車がほとんど通らないのはいいが、街灯がぽつぽつとあるばかりで、そのうえバケツをひっくり返したような雨はずっと降り続いている。街路は妙に暗く寂しげで、鬱々としていた。
 あと2回、角を曲がったらうちが見える。ギュッと踏みしめるたびに靴底から雨水の染みだす感触が気持ち悪いのを我慢しながら足を動かす。早く家に帰りたい。全部脱ぎ捨てて風呂に入ってひと息ついて、おなかいっぱい母の手料理が食べたい。無意識に早足になる。
 そんなタイミングで、突然侑が口をひらいた。
「なあ、サム」
「なん……」
 ふっと片割れに顔を向けると、傘で行く手を遮られ、思わず足を止める。前に回り込んできた侑の手が頬に添えられる。あ、と思った時にはもう侑の顔が近づいていた。ふにっとマシュマロみたいにやわらかな触感が唇に触れる。治は身動きひとつできず、ただただ至近距離で侑の閉じられたまぶたを見つめていた。
 ザアザア、バタバタ、バタバタ。
 雨が水浸しの地面に打ちつける音と傘を叩く音だけが鼓膜に響く。侑の後ろに広がるはずの景色は、雨が滝のように流れ落ちるビニール傘にぼかされてゆがめられ、まるで世界に侑しかいなくなったかのようだった。
 長い時間だった。実際は一瞬だったのかもしれない。唇がゆっくり、そうっと離れる。はっと我に返って、治は俯いて唇を手で覆った。
「な……にしてんねん」
「ん? 顔近かったから」
 侑がにこりと笑って、なんでもないことのように答える。
「そんな理由でキスすんのかい、テメェは」
「あ! いや、するんはサムだけやで?」
「アホか、んなこと訊いてへんわ! 外でキスすんなや」
「えー、人おらへんやん、平気やろ。サムは照れ屋さんやなあ」
「やかましわ、そういう問題ちゃうねん」
「何が? ……なあ、外やなかったらええん? ほな、帰ったらキスしてええ?」
「さっきしたやんけ」
「何回したってかまへんやろ、サムとチューしたいもん! なあ、サムは嫌なん?」
 うつむいた治の気も知らないで、侑が食い下がる。
「鬱陶しいなあ、もう! やっぱりツムなんか傘入れてやるんやなかったわ。傘返せ!」
「傘はあかん! お前、絶対俺のことほって帰るつもり――あ」
 侑の手から傘を奪おうと、把手を掴んだが、奪われまいと侑も手に力をこめたが、反応が遅れたせいか、傘が侑の手から離れる。侑もまた、奪い返そうと手を伸ばしたせいで、傘はふたりの手に弾かれ、ふわりと宙に浮いた。はっとして、ふたりは互いの大きく見開いた瞳を見た。
 傘がくるりと宙でひっくり返って、頭から地面に落ちる。石突きの先端がアスファルトにコツンとぶつかり、くるりと回って止まる。逆さになったビニールのお椀には雨水がどんどん注ぎこいでいるが、そんなことにも侑は気づかない。他のものに目を奪われていたからだ。かち合った瞳同士が、魔法にかかったように引き合って逸らせない。頭から流れてくる雨に濡れた治の顔は、りんごのように真っ赤になっていた。侑が思わず治の手を引いて抱き寄せる。痛いぐらいにぎゅっと抱きしめられて、治は目をしばたたいた。視界の端で、たっぷりと内側に水を湛えた傘が転がっている。
「……その顔、反則や」
「何がやねん……! んむっ」
 耳元で侑がささやいたと思うと後頭部を引き寄せられて、唇を食われる。さっきのような触れるだけのかわいらしいキスではなく、荒々しくて性急なそれ。歯列を舌がなぞり、舌を絡め取られる。口の中で雨も唾液も混ざっていく。合間に熱っぽい吐息がこぼれて、ますます頭の隅がびりびりと痺れる。「こんなところで無理やりキスしてくるとか最低や」と思う反面、気持ち良くてたまらない。もっと欲しいと期待して、ぐっしょり濡れた侑のTシャツの背中をぎゅっと握り締める。
 侑の手が治の後頭部からうなじを撫でて、治の舌をきつく吸い上げてから唇が離れる。
「っ――ふはっ」
「……フッフ」
 治は乱れた息を吐きながら濡れた髪をかき上げ、顔面を手のひらで拭った。拭ったところで雨は止まってくれないので、まったく意味はないのだけれど。同じようにぐっしょり濡れた髪を掻き上げた侑がころころと上機嫌に笑って、治の濡れた額に唇を押しつけた。治は未だ侑の背中でTシャツを握り締めていることに気づき、慌てて拳をひらいて引っ込めた。
「……ツムのせいでびしょびしょなったやんけ」
「サムやって、俺とチューしたかったやろ。顔に書いとったで」
「書いてへんわ、アホツム」
 治が悪態をついても、侑は楽しそうに笑っている。
「あーあ、俺もパンツまでぐっしょりや。風邪ひいてまうなあ」
「こんなんで風邪ひいて『体調管理がなってない』言うて北さんに怒られるん、嫌や」
 口を尖らせて傘の把手を掴んで傾ける。お椀に溜まっていた水がだばっと滝のように放流される。ひっくり返して正しく雨よけとして頭上に掲げてみるも、水滴がぽたぽた落ちてくる。もはや傘の意味はなさそうだ――それに治も侑も、もう十分すぎるほどに濡れている。
「ほんまやなあ。帰ったらめしの前に一緒に風呂入ってあったまろか」
「風呂ぉ? ……お前、変なことする気なん、バレバレや」
「変なことてなんなん? わからへんから教えて、治クーン」
「うっざ……」
 治は傘を閉じて侑の尻を叩いた。「いだ!」と侑が悲鳴をあげるのを見てすっきりした。浸水して重たい靴も、ほんの少し軽くなる。
 まあ、尾白の言うとおり、びしょ濡れの侑をほったらかしにして風邪を引かれても困るし、それで北に怒られるのも後味が悪い。仕方がないから、家に帰ったらまず一緒に風呂に入ってやろう。治は侑を置いて、水たまりのど真ん中を踏んで駆け出す。
「サム! 置いてくなや!」
 水たまりをばしゃばしゃ蹴りながら片割れの声が追ってくるのを聞いて、子どものように声をあげて笑った。


2022.06.19