nakaminai

左手くすりゆびの証

 大人になって面倒なことが増えたと思う。礼儀とかマナーとか常識とか人付き合いとか税金とか食事とか部屋の掃除とか、非常に煩わしい。子どもの頃は大人がこんなに面倒くさい生き物だとは思わなかった。毎日双子の兄弟の治と一緒に学校に通って授業中は寝て過ごして放課後はバレーボールに没頭していた、高校生の日々が恋しい。

 治の家の寝室の半分を占めるダブルベッド。治が「ひとり暮らしする」と言い出したとき、侑が駄々をこねてダブルベッドを買わせた――というより、治が「金ないしスペースないし、シングルでええわ」と言い張るので、侑が自腹を切ってダブルベッドを購入した。低くはない頻度で自分も一緒に寝るつもりだから、ふたり一緒に眠れるサイズのベッドが欲しかったのだ(キングサイズを推したが、本気で置く場所がないと却下された)。狭い寝室に置かれた侑が購入したダブルベッドで、当初の希望通り侑は治と一緒にベッドに入っている。肌を重ねた後のけだるいまどろみに包まれながら、二の腕には治の頭を載せている。しばらくこうしているので、頭の重みで少し痺れてきたが、なんだかそれも心地よい。高校入学と同時に侑は金、治は銀に染めたシンメトリーの髪色がいまは真っ黒に染め直されていて、初めて見たときこそほんの少し寂しさを感じたものだが、いまはこの色も悪くない。たぶん治に言うと怒られるけれど、真面目で清廉で優等生然とした彼のからだを暴くのは、結構興奮する。

 侑はお気に入りの黒髪を指先で繰り返し撫でながら、ぽつりとつぶやいた。
「高校生に戻りたいわ」
 治が顔を上げ、怪訝そうに侑の顔を見る。少し上目遣いなのがかわいらしい。
「突然何を言うとんねん」
「高校やったら、サムと一緒におる時間、ようけあったやん」
 侑は拗ねたように口を尖らせた。
 せっかくダブルベッドと結構いい値段のマットレスをセットで買ってやったというのに、意外にも毎日がめまぐるしく忙しい。侑は大阪、治は兵庫と離れて住んでいるしお互いに社会人だ。翌日のことを考えると、頻繁に夜遅くに互いの家を行き来するのも難しかった。学校を卒業し授業がなくなって大人になれば、侑の人生にはバレーボールと、治と過ごす時間だけが残ると単純に思っていたのに、いざ大人になってみるとどうだ。言うまでもなく、侑の読みは甘かった。
 今日は実に10日ぶりの逢瀬だったのだ。生まれる前から一緒にいた片割れとこんなに長い間離れ離れになることが世間的に許されるなんて、思ってもみなかった。せっかく購入した治のダブルベッドも侑はほとんど堪能できていない。

「まあ、それはそうやろ、おんなし高校行っておんなし部活してたんやから」
 治が「今更何を言っているのか」とばかりに薄情な笑みを浮かべて言う。
「せやから高校はよかったなって話してんねん! こんなにサムと会えんと思わんかった。なんやねん、大人って! したくもないことやらされて、おっさんにへらへらして、つまらん話聞かされて! 忙しいだけでサムにもなかなか会えへんし、虚無やで!」
「フッフ、せやなあ。でも、ツムが頑張っとる証拠やん」
 治がくしゃりと笑って小さな子を褒めるように右へ左へと侑の頭を撫でる。たったそれだけで嬉しくて、侑のささくれだった心がほんの少しまるくなる。脂ぎった壮年の会社役員の顔を思い出してわめきたてていた侑は、ふう、とひとつ深く息を吐きだした。ため息で役員の顔は頭から吹き飛ばされ、いくらか落ち着いた気持ちになった。侑が落ち着いたのを見はからって、治も手を引っ込める。
「……面倒くさいよな、大人って」
「せやな、面倒くさいわ」
 独り言のように吐き出した言葉にも、治は律義に相槌を打った。
「俺は毎日サムのめし食うてサムに会いたいしイチャイチャしたいのに、せっかくはよ帰れるー思たら、飲み会とか誘われんねん。やっぱ付き合いで参加せなあかんやん。したら、だいたい誰かの知り合いの女がおるんやんか。アスリートの彼氏が欲しいんか知らんけどむっちゃべたべたしてくるしお付き合いされてるんですかあ? とか言うてきたり、最悪やねん」
「ほおん。侑クンはなんて答えんの」
「それがなー、なんや俺イケメン枠やし、女子ウケ枠やんか」
「いや知らんけど」
「最後まで聞けや。せやから、彼女はいません! バレーが恋人です! みたいなスタンスで売ってくことになっとるらしくてな、交際匂わせんなて言われとんねん。せやから、俺はずっと恋人もおらん独り身設定やけど、頑なに断ってんねん。俺はそうやって鬱陶しいブタの相手してんねんから、サムも変な客に言い寄られとるんちゃうん。大丈夫か?」
 侑は本気で心配しているのだが、治はからりと笑い飛ばした。
「変な客て、ええ人ばっかりやで。意外と大したクレームもないねん、いまんとこ」
「クレームやなくて、言い寄ってくる身の程知らずのブタの話してんねん。お付き合いしてる方いるんですかあ? えー、いないのお? アタシ立候補しちゃおっかなあ、みたいな」
 侑は実際に数日前の飲み会で絡んできた女を再現したのだが、治は「そんな漫画みたいな女おるかい」と鼻で笑った。「おったんやて!」という侑の訴えもむなしくスルーされてしまった。
「でも、彼女おるかは聞かれるわ、男女関係なく。『いませんよそんなん』言うてるけど、こんなんただの雑談やろ」
「ああ? ハア……ほら。それやねん」
 侑は呆れたとばかりに大げさにため息をついた。治は侑とちがって、昔から変に無防備なところがある。侑は警戒心が強く気難しいところもある子どもだったが、治はのんびりしていて警戒心が薄い。不審者に飴一個でついていきそうになったこともあった。侑のため息が気に障ったのか、治が眉をぴくりと上げる。
「なんやねん、その言い方、ムカつくな」
「お前はポンコツすぎんねん。彼女おらんって答えた時点でロックオンされてんねんで」
「アホか。お前の頭ん中、そういう付き合うとか付き合わんとかしかないん。ポンコツはお前やろ」
「ポンコツちゃうわ! 俺は心配しとるんやで――とりあえずサム、指輪してくれ! 左の薬指に! 明日一緒に買いに行こ」
 たまらず治をぎゅうと抱き寄せると、くっついた胸をむりやり引っぺがした治が訝し気に言った。
「なんやそれ、結婚指輪か」
「おう……まあ、そうやな」
 おどけた言い方になってしまったばかりに、指摘されるとなんだか恥ずかしい。侑はごまかすように頬を掻いた。
「アホか、つけれるわけないやろ、飲食業で」
 侑は思わず「えっ」と声をあげた。それからまくし立てるように食い下がる。
「なんでや! 別に直で食いもん触ったりせえへんやろ! 手袋つけとるやんか」
「素手で触ることもあるし。それに、指輪ずっとしとったら手もちゃんと洗われへんし不潔やん。指輪しとったとしても、手袋外すときに指輪も外れてどっかいったり排水溝に流したりするかもしれへんで。ええんか?」
「ええわけあるかいっ! それは気ぃつけや!」
「気ぃつけてもダメなときはダメやねん」
 治は真顔で言い放った。彼は昔から、変なところで諦めが良すぎる。自信がなくなってきた侑は困惑して眉を下げた。
「身も蓋もない……えー、指輪、ホンマにつけられへんの?」
「つけられへん」取り付く島もなく治は首を振って繰り返した。
「えー。指輪、虫除けにちょうどええやんか……あっ、ほな札提げといて! 『私が彼氏です』って、俺の写真添えてな」
 首から社員証みたいに札を提げておにぎりを握る治を想像する。ちょっと面白いけれどかわいい気もするし、「俺の治やで!」と来店客の全員に触れ回れると思うとなかなか気分がいい。悪くないアイディアだ。当然、「するかい!」と却下されたが。
「俺よりツムちゃうん、気ぃつけなあかんの。飲み会、多いんやろ。変な女に引っかかんなよ」
「当たり前やんか。心配しとん?」
 もしかして、ヤキモチ? 嬉しくなって、侑はにやにやと頬を緩めた。それがまた気に食わなかったのか、治はじとりと目を細めた。何を思ったのか、彼は突然侑の左手を掴んで引き寄せた。
「お?」
 口元に手を引き寄せたかと思うと、薬指の腹にくちびるをふにっと押しつける。やわらかい。侑は目を見開いた。治もまた、侑の薬指の腹を何度もくちびるに押しつけながら、上目遣いに侑を見ている。視線を合わせたまま、今度は指先を唇で挟んだ。
「……サ、ム?」
 ひらいたくちびるの隙間から、ゆっくり、見せつけるようにして薬指が飲み込まれていく。指の付け根までが治の口内に収まってしまったかと思うと、付け根に固いものが食い込む感触。歯だ。歯を立てられている
 侑は眉をひそめ、くちびるのあわいから、ふっと熱い息を逃がした。上あごと下あごが、口の中のものを噛み砕こうと圧力がじわじわとかけられているのはわかるが、痛みはない。ぎりぎりのところで治が加減するからだ。治の歯が何度か侑の指を挟み、やわやわと歯を立てたところで、治は口を開けて指を引き抜いた。侑の指を左手でさすりながら、呆れたように侑を見る。
「アホか、なに興奮して見てんねん、止めんかい。指は商売道具やろ」
「いやあ、トス上げたんのに、指10本ないと困るってサムは身に染みてわかっとるやろ? サムは俺の指噛まへんて思った」
 ふにゃりと笑って、指をさする治の手を逆に捕まえてやると、治はどこかくすぐったそうに身じろいで目を伏せた。
「……染みてへんわ、何年前の話してんねん」
「フッフ。どないしてん、左手の薬指に痕つけたかったん?」
「……うっさいから、指の付け根に指輪っぽく歯型でもつけたろかな思って」
 治らしい口ぶりに苦笑する。かわいげのないところがまた、侑にとってはかわいい。
「ほんま凶暴やな、野生動物やん……なあ、甘噛みならええよ。好きなだけ噛みや」
 どうせ治は本気で指をかじったりしないから左手を差し出してやったが、治は今更羞恥がこみあげてきたのか、「いらん」とふいと顔を背けた。侑はにこっとあどけなく笑った。
「じゃあ俺がしてええ?」
「はあ?」
 治の答えも聞かず、捕らえたままだった治の左手を引き寄せる。治が先ほどしたように、薬指の腹に口づけて、口の中に指を飲み込んでいく。根元の第三関節の位置に歯を立てる。治の顔が、痛みとはちがう何かを感じてわずかに歪む。侑は治の表情を見つめながら、咀嚼するようにあごを動かす。舌の上に治の薬指の腹が触れる。舌先で押し上げると、今度はわかりやすく目を細めてびくりと肩を震わせた。顔も上気して赤らんでいる。まるで情事の最中を思わせる顔だった。かわいい。気を良くして、指全体を執拗にねぶる。指を引き抜かれないように歯を立てて引き止めながら、舌で弄んだり、喉の奥に吸い上げたりすると、そのたびに治は感じ入った声の混じった吐息を漏らし、時折「ツム」「もうええ」とうわごとみたいに繰り返す。
 吸い上げながら、ちゅぽっと音をたててようやくくちびるを離すと、治ははっとして侑の頬をべちんと叩いた。
「いた!」
「アホツム……!」
 じろりと睨みつける瞳は潤んでいて、全然迫力がない。治の目は思い出したように自分の左手に向けられた。侑も一緒になって、治の左手の薬指を見る。指は付け根を圧迫したせいか、指先に向けてほんのりと赤く色づいているだけで、肝心の根元には気持ち程度の歯型がついているだけだった。失敗したものの、侑は口を開けて笑った。
「あはっ! あんまり痕ついてへんなあ。やっぱり血ぃ出るくらい噛めへんとムズいわ」
「んなことしたら蹴り飛ばしとるわ」
 治が低い声で言う。これは本気のトーンだ。侑は頬を引きつらせた。
「せやな。サムの指も大事な商売道具やしな。わかっとるて、実際傷付けてへんやん。な? 先に噛んだん、サムやし」
 今回ばかりは反論できない治はじとりと目を細めて侑を睨みつけていたが、やがてため息をついて、侑の胸にすり寄ってきた。
「……ツムがそんなに指輪欲しいんやったら、そのうち、見に行こか」
 思わぬ提案に、侑は目をまるくした。いつの間にか寝落ちして夢でも見ているのかとさえ思って、思わず頬をつねってみる。普通に痛い。
「え? なに、急に? ホンマに? ほな――」
「まあ、つけへんけど。どうせツムもつけへんやろ。でも持っとく分にはええやん、おそろいの。まあ、あれや、明日行くとか突発やなくて、なんか――」
 ほなやっぱ明日行こ、と言いかけた言葉を飲み込んでよかった。よかったけれど、侑は首をかしげた。
「指輪見に行くだけでそんなに覚悟いんの?」
「やかましわ! 俺はお前とちごて、ちゃらんぽらんに生きてへんねん。……ちゃんと考えて、意見擦り合わせてから行こ」
「アホ、ちゃらんぽらんちゃうわ。意見てなんなん、サムはめんどいなあ……大人になって、ますますめんどなったわ」
 侑は治の黒髪に指を埋めながら、ため息をついてみせた。それから、こらえきれないかのように小さく笑いを漏らす。
「……まあ、でも、めんどいんも、サムと一緒やったら楽しいわ」
 侑につられて、腕の中で「あっそ」とそっけない返事をしたあと、治も笑った。

「なあ、このベッドっちゅーかマットレスやばない?」
「やばい、めっちゃ寝心地ええ。いっつも秒で寝る」
「な? ええの買ってよかったやろ」
 もとは下心満載だったことは隠して自慢げに言うと、治もにっこり笑って頷いた。
「せやなぁ、侑サマのおかげやからいつでも寝に来てええんやで」
「そう? サムもひとりで寝るん寂しいもんなあ。なんや、大人になるんも悪いことばっかりやないな」
 侑が手のひらを返して上機嫌に笑うと、治が目をまるくした。
「そうなん?」
「金稼いで、二段ベッドやなくてええベッド買えるやん。そんで、おとんとおかん気にせず治とイチャイチャできるし」
「……お前、ホンマ現金やな」
 治はため息をついた後、侑の頬を撫でて、くちびるを重ねた。


2022.06.27