nakaminai

渚のあのこ

 7月初旬、いよいよ夏突入、真っ青な空に白い雲、青い海、白い浜辺。解放感いっぱいの季節――のはずだが、目の前には学期末テストという死ぬほど面倒なイベントが立ちはだかっていた。
 テスト期間中は部活動が禁止されている。毎日バレーに明け暮れていた侑と治の双子は、当然暇を持て余した。「勉強するために部活休みなんやろ」と教師や両親に正論をぶつけられてもふたりには微塵も響かない。リビングでゴロゴロしていたり、遊びに出かけようとするとすぐ母に咎められるので、ふたりは仕方なく部屋にこもってゲームをしたり漫画を読んだりして過ごした。テスト前日の就寝前30分が勉強の時間だった(それも身についているかというと、当然まったくそうでもない)。

 テスト2日目、4科目。今日もまったく意味のわからない答案用紙とにらめっこをする時間が終わる。明日もまだこれが繰り返されるなんて信じられないが、現実は残酷だ。せっかく昼には解放されるのに体育館でボールに触ることもできない。
 部活動が休みになってもう1週間。退屈で死にそうだった。

 侑と治は校門を出て、並んで街路を歩いていた。真昼間の太陽は容赦なく頭上から照りつけるし、更に地面のアスファルトが太陽光を反射して下からも肌を焼く。バレーをしているときは気にならないのに、ただ立っているだけでも全身から噴き出す汗が気持ち悪い。ワイシャツの袖で顔の汗を拭いながら、治が口をひらいた。
「今日、テストどうやった?」
「あー? 聞かんでもわかるやろ。ええねん、別に、俺はバレーで食ってくんやから。勉強なんかどうでもええねん」
「赤点やったら試合出さへんって監督に言われたやろ」

 夏休みに入ればインターハイが控えている。テストの成績が悪かったからといって重要な戦力である侑を試合に出さないとは考えにくいが、テスト期間前最後の部活の時に「学生の本分は勉強や。いくらバレーが上手くてもテストで赤点取るような奴は試合出さへんからな、わかっとるやろうけど」と言いながらじろりと双子を見た監督の黒田の声音は、ロッカールームに集まった部員全員満場一致で「あれは本気」という結論となった。考えてみれば、黒田もバレー部の監督である前に高校教師なのだ。

 これはヤバい。

 顔を見合わせた双子が状況を理解し、真面目に机に向かったのもテスト期間初日、家に帰って最初の10分間だけだった。

 侑はもちろん「試合に出られないのはめちゃくちゃ困る」と思った。もしそんなことになれば、登校拒否になりそうなぐらいにショックを受ける自信がある。けれど、侑が試合に出られなくて困るのは侑自身だけでなく、チームや監督も同じことではないだろうか? 侑はまだ余裕のある笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「まあ……なんとかなるやろ。高校ナンバーワンセッターやで、俺は。俺がやらんで誰がトス上げんねん」
「テメェはホンマに能天気やな。せめて赤点は回避せえよ」
「わかっとるわ、お前もひとごとちゃうやろ」
「テメェよりマシじゃ」
「はあー?」
 治のふくらはぎを蹴ってやろうと足を上げると、すぐに距離を取って逃げられた。長年一緒に過ごしたせいで、行動が完全に読まれている。侑は舌打ちした。
「あーあ、今日も部活休みかあ。テスト期間って、部活ないんがいちばん最悪や。なあ、帰って何する?」
「勉強ちゃう?」
「んなこと言うてお前、寝る前30分しかせえへんやん!」
「テメェもおんなしやろ」
「まあなー」
 へらりと笑ってふたり同時にため息をつく。
 会話が途切れる。炎天下をバス停に向かってぽつぽつと歩いていたふたりだったが、侑は次第に歩くスピードを落とし、やがて足を止めた。数歩先を進んでいた治が気がついて、足を止めて振り返る。猛暑のせいで不機嫌そうに眉間にしわを寄せた治と目が合う。侑はまっすぐにその目を見つめた。

「なあ、海行こ」

 ジャンジャンジャン、そこかしこで蝉がやかましく鳴いている。喧噪のなか、治は険しい顔つきのまま、じっと侑を見つめている。侑もまた同じだった。
「明日もテストやろ、帰って勉強せえや」と返すのが普通なのだろう。しかし治は侑の双子の兄弟であり、DNAは同じだ。家に帰ったって、どうせ寝る前の30分しか教科書や問題集をひらかないのを侑はよく知っている。
 予想したとおり、治は口角を上げて愉快そうに笑った。
「……ええなあ、海。角名と銀も誘うか? どうせあいつらも勉強せえへんやろ」
 侑が答える前から治はポケットからスマートフォンを取り出し、画面をトントンとタップし始めた。きっと早速SNSのグループトーク画面をひらいている。治がメッセージを送信してしまう前にと、侑は大股で治に歩み寄って治の手ごとスマートフォンを掴む。怪訝な顔をして見つめてくる視線を無視して、スマートフォンのスリープボタンを押した。ディスプレイがふっと暗くなる。そのまま、スマートフォンと治の手をスラックスのポケットに運ぶ。
「……ふっ、ふたり、がええ……」
 急に恥ずかしくなって、侑は視線を逸らしてぼそりと言った。蝉の大合唱にかき消されそうな小さな声だったが、治にははっきり聞こえていたらしい。意外そうに目をまるくして、侑を見つめている。
「……ふーん」
「なんや。あかんのか!?」
 からかうような声音を感じて駄々っ子のようにわめく。次に何を言われるかと思ったら、ポケットへ誘導した手をスマートフォンの代わりに握り返された。びっくりして、侑はのけぞるようにぴんと背筋を伸ばした。暑く、じっとりと汗ばんでいる。汗が自分のものか治のものか、よくわからない。
「ええよ」治が目を細め、白い歯を見せて笑った。
「……行こ!」
 侑はぱっと笑顔になると治の手を取り、道を引き返して走り出した。家に向かうバス停と海に向かう電車の駅は反対方向だ。

 駅の券売機前で足を止めたふたりは路線図を見上げ、見覚えのある駅名を見つけて同時に指をさした。
「あれ、海水浴場あるとこちゃう?」
「おお、昔、おとんとおかんと一緒に行ったよな」
「ほなそこ行こ」
 思いつきのままきっぷを買って、電車に飛び乗った。車内にひとは少なく、ふたりは長椅子に並んで腰かけた。いつも乗るバスとちがって車内は広々として、冷房も全体に行き渡っているし揺れも少なく快適だ。
 普段の活動範囲より外に出るのはわくわくした。それも、治とふたりきりで。なんだか悪いことをしているような、知り合いに見られたらまずい場面のような気がして、後ろめたさと高揚感が半々、胸の内に膨らんでいた。
 目的地が近づくと、しばらくは街並みしか見えなかった車窓の景色が一気にひらけ、広々とした海が現れた。強すぎる陽射しを浴びてきらきら輝くみなもを、乗り慣れない電車の窓からふたりで目を輝かせて眺めた。時折ちらりと隣に目を遣るたびに目が合うので、なんだかくすぐったくて、特に面白いものがあるわけでもないのにけらけら笑い合った。
 降りた駅からほど近いところに海浜公園がある。土地の記憶は曖昧だが、幼い頃に家族で訪れたのはまさにそこらしい。駅にも親切な案内板があってまず迷うことはなさそうだ。ふたりは矢印に沿って進んで駅を出た。相変わらず建物から出るとムッとした熱気が顔面に吹きつけ、耳をつんざく蝉の声に襲われて不快だったけれど、ふわりと香る磯の匂いにわくわくして、侑はいても立ってもいられず「海や!」と叫んで駆け出した。負けず嫌いの治も侑を追い抜こうと走り出す。汗がだらだら流れるのも構わずにふたりは並んで走った。道の先に灰色の堤防が見える。あの向こうに砂浜があって、海が広がっているはずだ。
 ふたりはほとんど同時に地面を蹴って、堤防の上に飛び乗った。全力疾走のせいで喉の奥まで渇いて、はっはっと浅い呼吸を繰り返す。堪えきれない笑顔を浮かべて顔を上げる。白い砂浜、青い海、冷たい水、海の家、焼きそば、かき氷――!

 ざあ、ざあ、と波が押し寄せる音が、穏やかに鼓膜をやさしく揺らす。目に映る景色は、思ったよりも寂しく閑散としていた。遠くにぽつり、ぽつりと2、3人の人影が見える程度で、あとは砂と海しかない。水着を着た人々も、カラフルなパラソルも、砂浜を四角く切り取るレジャーシートもない。焼きそばやかき氷なんて影も形もなさそうだ。
 侑は拍子抜けして、ぱちぱちとまたたいた。
「海デカいけど……全然人おれへん」
 隣で治も目を細める。
「せやなあ。海の家もやってへんし」
「海、もしかしてまだ泳がれへんのか?」
 隣の治が腕で額をぐいっと拭いながら深い息を吐きだした。
「考えてみたら、まだ早いわ。海びらいてへんもん」
「海びらくん、いつなん?」
 海開きを意識したこともなかったふたりは「言われてみれば」と顔を見合わせて首をかしげた。治がどうでもよさそうに言う。
「知らん……海の日ぐらいちゃう?」
「そか……まあ、ええねん、どうせ水着持ってきてへんし。ちょっと海見たかっただけやねん」
「センチメンタルか」
 侑は砂浜に飛び降りて、波打ち際に向かって歩きだした。治も後からざくざくと砂を踏みしめてついてくる。

「やっぱ足ぐらいは海に浸かりたいよな」
「せっかく来たしな」
 いそいそと素足になってスラックスのすそを膝まで捲り上げ、我先にと波打ち際に飛び込む。ばちゃん! と水しぶきが上がり、ふたりは「わはは!」と声をあげて笑った。
「つめたあ!」
「むっちゃ気持ちえー」
「もう制服濡れてもええから全身浸かりたいわー」
「それはさすがにおかんに怒られんで」
「うりゃ!」
 侑が足で水面を蹴り上げ、治のスラックスの太もも辺りまでしぶきがかかる。侑はけらけら笑っていたが、治は真顔で濡れたスラックスを見下ろしていた。
「クソツム!」
「ぶあ!」
 治が腰を屈めたかと思うと、海水を掬って侑の顔面にぶっかけた。頭まで濡れてぽたぽたと前髪から滴が垂れ落ちるのを、侑は後ろへ撫でつけた。
「しょっぱ! おい、むっちゃ制服濡れたやん!」
「制服濡れてもええって言うてたん、侑クンですけど」
「ええわけないやろ、おかんに怒られるやん!」
 侑もまた、水を掬い上げて治の顔に水をかける。「ぶっ……!」
 咄嗟に顔を背けた治も結局頭から濡れて、ぽたぽたと雫をしたたらせる。ぷるぷると頭を振って、治も前髪をかき上げた。水遊びには本気すぎる、鋭い目がギロリと侑をにらみつけた。
「おい、俺は濡れてええなんか言うてへんじゃろがい!」
 治が水面を蹴り上げる。しぶきで胸まで濡れ、侑もまた両手でたっぷり水を跳ね上げた。
「やられたらやり返すに決まっとるやろ!」

 時間を忘れて水をかけ合ったり、追いかけっこをしたり、通りがかった女性の連れた犬と遊んだりしているうちに、もう何時間も経っていた。昼食を摂ることさえ忘れていて、ふたりは浜辺に並んで腰を下ろし、治のカバンの中でぺちゃんこに潰れたあんぱんを半分に割って食べた。頭上にあった太陽がいつのまにか正面から照りつけている。反射する水面のせいでますます眩しい。ざあ、ざあと静かに打ち寄せる波の音を聴きながら、ただ何をするでもなく海を眺めた。
「遊んだなー……」
「なー……」
「なんか、普段行かんとこ行くん、ちょっと楽しかったな」
「楽しかったなー」
「最近、部屋以外でサムとふたりきりになること、なかったし……独り占めできて気分よかったわ」
 笑って隣の治を見る。治は怪訝そうに眉根を寄せて、横目に侑を見ていた。
「……なんやそれ、寂しかったんか?」
「角名も銀も好きやで、ええ奴らやし。でも、ちょびっとだけ、寂しかったっちゅーか、角名とか銀がサムと楽しそうに話したりしてんの……ホンマにちょびっとだけ、悔しかったっちゅーか……」
「は? アホやなあ、ツムは」
 侑の肩に治の手が触れて、抱き寄せる。
「ツムやって、俺がおらんくても角名や銀と楽しそうにしとるやん」
 侑は言葉に詰まった。確かにそうだ。ふたりのことは好きだし、冷たくする理由もない。治だって同じことのはずなのに「俺よりあのふたりのほうが好きなんかも」と不安なのだ。侑は角名や銀島とちがって、しょっちゅう治を怒らせてしまう。侑は膝を抱えて俯き、口を尖らせた。
「……サム、俺のこと好き?」
「は? フッフ、なんや、急に」
「答えろや」
「ツムこそ答えろや」
「好き。いちばん好き」
 即答。だって、悩む隙すらないぐらい、ずっと昔からの本音なのだ。だから、侑も治のいちばんで特別がいい。侑の熱視線に気づいているくせに、治は海を眺めたままこっちを向かないままおかしそうに、また呆れたように笑った。
「答えるん、はっや……なあ、喉渇いたなあ」
「おい、話逸らすなや」
 自分だけ何十回目かわからない告白をさせられたのが不服で、治の顎を掴んで無理やりこちらに向ける。治は慌てるでも怒るでもなく、普段どおりの調子で言った。
「自販機でジュース買うてきてや、ツム」
「はあー!? なんで俺が――」
「せやなあ、炭酸がええわ。買うてくれるんやったら、キスしてええよ」

 ぴたり。
 なんで俺が買うてこなあかんねん、調子こいてパシんな、俺やって小遣いピンチなんやぞ、なんて、マシンガンのように次々と言葉が頭に浮かんでいたのに全部が粉々に崩れ、侑は口を開けたまま硬直して黙り込んだ。
 キス。サムが、キスしてええ言うた? いっつも外では、ほっぺにチューも手ぇ繋ぐのも嫌がるのに?

 ぐるぐる考えている間にも波はざあ、ざあと穏やかな音をたてて寄せては引き、寄せては引きを繰り返す。硬直して何度目かの波が打ち寄せたとき、欲望に素直な侑の手の中で、きっちり締めたはずの財布の紐が呆気なく緩む。
「えっ。こ、ここで……?」
 おずおずと侑が聞くと、顎を掴まれたまま、「おん、ここで」と治が頷く。
「しかも、前払いやで。どや」
 侑は負けた。欲望に。内心、財布を放り出して両手を挙げてバンザイした。しかし表面上は我慢して、平静を装ったつもりで治の顎から手を離す。
「……しゃーないなあ! 買わへんとあとから恨まれそうやしぃ? こ、買うたるわ」
「フッフ、ありがとお、ツム、大好き」
 突然聞こえた4文字に目をまるくして、治の顔を見る。夕陽を受けて、目元をたゆませた笑顔が優しくてあたたかくてまぶしい。

「……それ、ホン――」
 侑の言葉が途切れる。治のくちびるに吸い込まれてしまったからだ。少しかさついたくちびるが、侑の下くちびるを食んでやわく吸って離れる。治はにっと笑って、ごつんと額をぶつけた。
「俺はな、友達でもネタでキスしたないねん。ツムしかキスせえへん。わかったか?」
「……おん」
 こくりと頷くと、治はからだを離して侑の背をばしんと叩いた。
「わかったらはよ炭酸買ってこいや。はー、あっつー! 海入ってくるわ」
 治がひょいと腰を上げ、波打ち際に向かって歩き出す。侑は治の背中を眺めながら下唇に触れた。かさついていたそこは、治に吸われたせいでしっとりと湿っていた。濡れた唇を潮風が撫でてひやりとする。そういえば、汗が引いたせいもあるのか、陽が高い時刻より少し冷えてきた。治も海に行ったものの、暑いわけがないのではないか。
「自分から言い出してキスしたくせに、照れとんかい」
 侑は、砂まみれのスラックスの尻を眺め、目を細めて笑った。侑も立ち上がり、尻をぱんぱんとはたいて砂を払う。

 陽が傾き始めている。
 波打ち際で水を蹴り上げて遊ぶ治の向こうで、海は金色に波打ってきらきらとまばゆく輝いていた。


2022.07.26