nakaminai

恋とはどんなものかしら

「ごめんなあ。俺、いまはそれどこやないねん」
 侑は優しく、眉と一緒に目じりを下げて微笑んだ。

「侑くん」
 教室で自分の席で足を組んで銀島と話していた侑は名前を呼ばれて顔を上げた。立っていたのはすらりと細くて顔も小さい、学校に大勢いる女子生徒のなかでもとびぬけてかわいい女の子。目が合った瞬間に彼女が気恥ずかしそうに俯き、長いまつ毛が際立った。胸より下ぐらいの長さのサラサラの黒髪が彼女の頬に落ちて影をつくる。たしか、1年生の頃、同じクラスだった。彼女のクセなのだろう、手入れの行き届いた髪をいじる指先のせいで、胸元の名札が隠れている。名前、なんやったっけ。返事をする前に思い出そうと口をつぐんでいるうちに彼女が小さな赤いくちびるをひらく。
「あんな、放課後、ちょっとだけ付き合ってくれへん?」
 はにかんだ彼女の顔を見ると、なんとなく想像がつく。

 ――これ、絶対メンドクサイやつや。

 銀島が何か言いたげに侑にちらと視線を送る。「放課後は練習あるやろ」とか、「誰なんこの子」とか「お前、なんかしたんか」とか、たぶん色々言いたいことがあるのだろう。
「ええよ」
 侑はにこっと微笑んだ。彼女はひとまずほっとしたように微笑んで、「じゃあ放課後また来るわ」と言って去って行った。それまで黙っていた銀島が感心したように、はたまた呆れたように一言。
「侑、お前……雑誌の取材が来たときみたいなうさんくさい顔しとったな」
「待て待て、なんやねんそれ。もしかしてけなしとんか」

 案の定、彼女の用事は告白だった。
 放課後、教室に迎えに来た彼女に連れられて階段を上り、生徒がほとんど来ることのない屋上に続く踊り場で「初めて誰かを好きになった」「付き合ってください」と頬を紅潮させて大きな瞳をうるませた彼女が訴える。触れただけで折れそうな薄い肩を震わせて熱っぽく告げられては、庇護欲が湧きいとしささえ感じる男がほとんどだろう。侑は残念ながらそのほとんどには当てはまらなかった。
 そうして冒頭に戻る。
 彼女は大きな目をますます大きく見開き、ショックを受けていた。大きな瞳を劇的にうるませていた涙がいよいよこぼれて、ばら色の頬をすべり落ちる。それでも構わず、侑は思ったままの言葉を口にした。
「俺、バレーより大事なもん、ないから。たぶん君のこと好きになれへんと思うよ」
 自分は悪いことはしていないけれど、かわいそうなことをしたのだろう。慰めるべきだろうか。うつむいて、顔を覆ってすすり泣く彼女の肩に手を伸ばしかけて、結局手を引っ込めた。
「……部活行かな。遅刻したら怒られんねん」
 告白されることはこれまでも何度かあるし、羨ましがられるけれど、侑は嫌いだ。自分にとってはなんの意味もない時間であり、後味の悪さだけが残るから。早く治と軽口を叩いて忘れたい。侑は足早に階段を駆け下り、部室へ向かった。

 ひと仕事終えた心地で部室に駆けこむと、角名が長椅子に腰かけ、治と銀島はロッカーにもたれかかって三人で何か話していたらしい。侑が勢いよく扉を開けると、一斉に侑の顔を見た。三人とも、練習用のTシャツとハーフパンツに着替え終わっている。
「遅刻するかと思た! お前らまだおったんか」
「まだ余裕でしょ。三年、まだ北さんしか来てないよ」
「ツム、何しとったんや」
 治がけだるそうな瞳を向ける。女子生徒に呼び出されていたことを知らないのだろうか。現場にいたはずの銀島をちらと見るも、彼は侑と目が合うとすぐに目を逸らした。侑はじろと治に視線を戻す。
「俺の勝手やろ」
「ああん?」
「喧嘩すなや! ほら、北さん来たらややこしなるから、はよ体育館行こや」
 銀島が不機嫌そうな治の背中を押しながら部室を出て行く。長椅子に腰かけていた角名も小さくため息を吐いて立ち上がり、侑の横を通り過ぎて部室を出て行った。

 初めて恋愛感情を自覚したのはいつだったろう。幼稚園の先生とか、幼馴染の女の子とか、小学校で隣の席になった女の子とか。ありがちでベタベタな存在に対して、そういう気持ちになった記憶はない。思い返してみれば、いつだって侑の記憶の景色には治の姿があった。どんな場面でも、侑は治のことばかり考えていた。自分でも「なんでここにも、ここにもサムがおんねん……サムしか見てないんかい、俺は」とツッコんでしまうぐらい。幼い頃はいま以上に治とべったりで、友達らしい友達なんていなかったように思う。必要なかったのだ。一緒に過ごすのも、おしゃべりするのも、競い合うのも、喧嘩するのも、全部治がいれば満たされていた。

 その日の夜、侑は上段のベッドに横たわったまま、下段の治に話しかけた。
「なあなあ、サムの初恋っていつ?」
「は? 女子か」
 顔の見えない片割れは、下段のベッドから少し間をおいて怪訝そうな低い声で返した。
「なんやねん! コイバナくらい、男同士でも普通にするやろ」
「普通とか急になんやねん、いつもしてますけどーみたいな言い方すな。ツムは友達おらへんからなあ、コイバナなんかしたことないやろ」
「はあ!? 決めつけんなクソブタ、友達ぐらいおるしコイバナもしますう!」
 ベッドの床板をバンバン叩いて抗議すると、治が「はいはい、うるさいわ」と鬱陶しそうにあしらった。
「で、これ、なんの流れやねん」
「わからへん。なんとなく」
「なんやそれ、アホか。だいたい、なんなん、どんな『好き』が恋なん?」
 どんな「好き」が恋。言われてみれば、恋愛以外でも「好き」という言葉を使う。寿司も焼肉もカレーも好きだ。何も考えてなさそうな治から飛び出した疑問に、侑は感心して大まじめに頷いた。
「ほおん……深いな」
「深ないやろ、ボケ。こらもうあかんわ、先が読めるわ」
「誰があかんねん、やかましいわ。でも、わかるやろ。おとんやおかんに対する『好き』は恋ちゃうやんか、恋やったらヤバイ」
「フッフ」
 治が笑う声がして、少しほっとする。恋という感情を確認するため、周りの人間を挙げてみることにした。
「お前のクラスのほれ、なんやかわいい言うてた子は? 隣の席のー……おっぱいでかい子」
「あ? あー、かわええけど、別に、かわええって言うただけや。そんぐらいで好きとかならんやん。てかもう席替えしたで」
 ひとまず侑はほっと胸を撫で下ろした。直近で治が異性の話をしたのはその子だけだった。
「幼稚園の時の先生」
「もう顔覚えてへん」
「俺も」
「ほな聞くなや」
 ぴしゃりと言い捨てられるも、侑は続けた。
「小学校の時は気になる子おった?」
「さあ。おらへん。ツムとずっと遊んどったやん」
 その言葉に重ねて幼い頃を思い出し、じいんと歓喜が湧き上がってくる。高校2年生の現在まで一度も同じクラスになったことがないから、クラスでの治がどんなふうなのか、人づてにしか知らない。クラスメイトの女子が治をどう思っているか、また治が彼女らをどう思っているかも知らない。治は容姿は悪くないし、クラスメイトの誰に対しても優しいらしいし、角名が言うには「モテるよ、本人は全然気づいてないけど」らしい。きっとこれまでも、侑の知らないところではもてはやされていたのだろう。それを聞いてから、侑はいちばん近くで治を眺めながらもずっと不安だった。
 ――なぜ不安だったのだろう? 治が他人に好意を抱いたり抱かれたりしたとして、自身に不都合があるだろうか。侑は内心首をひねりながらも質問を続けた。
「監督は?」
「別に好きちゃうなあ」治はあっさりと答えた。
「おい、法宗泣くで、家でも犬しか話し相手おらんねんから。角名と銀は?」
「……好きやけど、ちゃうやろ」
 角名と銀島のことは侑も大好きだけれど、彼らへの好意は友人としてのそれだろう。
「ほおん。北さんは?」
「こわい。体調悪いときに顔見たら、腹いたなんねん」治のげんなりした顔を思い浮かべ、思わず口を開けて笑った。
「あっは! わかるー。大耳さんは?」
「おとんの安心感」
「わかる。こないだ北さんと大耳さん、一緒にホットのほうじ茶飲んでたで。おとんちゅーか、老夫婦やろ」
「フッフ、そら老夫婦や」
「赤サンは?」
「赤サンは俺だけの赤サンちゃうからな……」
「たしかに……みんなの赤サンやからな」
「アランくん好き」
 今度は珍しく治から名前を出した。尾白アランとは小学生の頃からの付き合いだ。彼の「アラン」という横文字の名前に憧れて、「ツム」「サム」と呼び合うようになった。それにどんなにボケを仕込んでもひとつも取りこぼさずちゃんとすべてにツッコミを入れてくれる、関西人にとってのハイスペック年上男である。もしかして、治は本気で惚れているのだろうか? ドキドキしながら侑が口をひらく。
「俺も好きやけど……それ恋なん?」
「あー……アランくんの好きは、ちゃうんちゃう」
 少しだけ考えて治が答え、侑は胸を撫で下ろした。これまでに誰ひとり、治に恋という感情を抱かせる人間はいなかった。
「ほな俺は?」
「ツムぅ?」
 治の怪訝そうな顔が浮かぶ。またこいつ変なこと言い出しよって、とでも言いたげな顔だ。静かになって、まさか寝落ちしたのかとさえ思い始めた頃、ようやく治が口をひらいた。
「……好きとか嫌いとか、ないやん。腹立つしポンコツやしクソ野郎やしぶん殴ったろかって思うこともあるけど、家族やからな。当たり前に、生まれる前から一緒におるし。空気みたいなもんや」
「でも空気って、ないとあかんやつやん」
 すかさず切り返すと、呆れたような重たいため息が聞こえた。
「……おめでたい頭しとる」
 皮肉をスルーして侑は肘枕で寝そべったまま、散らかった自分の机を見下ろしながら「うーん」と唸った。
「俺は初恋いつやろなー……いつって聞かれたら、わからへんな」
「ツム、恋したことあったん? バレー以外にも興味あると思わへんかったわ」
 治の言葉に、侑は「んー」と唸った。
「言われてみたら、あんま興味ないかも。他人を好きやって思った覚え、ないわ。じゃあ俺、初恋まだなん?」
「俺に訊くなや。てか、なんでさっきから、誰が好きやなんやって聞いてくるん?」
 治の疑問ももっともだ。これまでの17年間、兄弟の間で「コイバナ」なんてしたことがなかったのだ。バレー界最強ツインズとして有名で容姿も整ったふたりは校内外問わず異性からの人気も高いが、ふたりは自分たちに黄色い声をあげる人間にあまり興味を持たなかった。彼女が欲しいと思ったことも侑はなかったのだ――治がどう思っているかは、侑にはわからないけれど。
 侑はどことなく落ち着かない気持ちになって、左右の足を交互にぱたぱた折り曲げながら言った。
「なんかな、むっちゃかわええ子に告られてん。侑クンが初恋やねんーって」
「……へー、すご」
「そのテンション低い『すご』ってなんや、どういう感情やねん」
「こんなポンコツが初恋なんか、マジか、て思って」
「やかましわ、クソブタ」
「自慢したかっただけにしてはフリが長いねん。で、付き合うん?」
「んー、なんか気ぃ乗らんかったから、断った」
「ふーん……」
「バレーでそれどころやないし、俺は恋人いらんわ。それにどんだけかわいい女子が『好きや』って言うてきても、サムとおるほうが楽しいなって思ってん」
 再び、下のベッドが静まり返る。

 あれ、俺変なこと言うたな、「キモッ」て思われとるんか? 侑は自分が言ったことを後悔し始めていた。治に何を言われても、もう寝たふりをしよう、と目を閉じる。そのとき、足もとからギシリとマットが軋む音。うっすらと目を開けてみると、治が傍らのスペースに正座してこちらを見下ろしていた。侑は思わず跳び上がるようにからだを起こした。
「うお! びびった、なんや!」
「もし、俺に彼女できたらどうする?」
「はあ?」
 治に彼女ができたらどうする。
 もしそうなったら、侑がどうにかできることなんてあるのだろうか。何もないと思う。でも、想像するとただただ胸がギュッと締まって苦しくて、ベッドから起き上がれないような重たい気分になると思う。言葉にするのが難しい。侑はしばらく考えて、やっと言えたのはたったの5文字だった。
「……オモロない。なんや、もしかしておるんか!?」
「おらへんよ。でも、俺も今日昼休みに告られた」
「は!? 聞いてへんぞ!」
「いま初めて言うたもん。言われても困るやろ」
 いままさに片割れから同様のことを言われて困ったのであろう治がへらりと笑って言ってのける。同じ日に告白されるなんて、双子だからといってそんなところまでシンクロしなくていいのにと思う。侑が不服をまくし立てる前に、治が続けた。
「俺に彼女できたら、なんでオモロないん? 先越されたないから?」
 侑と治はいつも競い合って生きてきた。侑は勝負ごとで治に勝てないことが多かったが、負けず嫌いの性格だ。これが競争だといわれれば、間違いなく相手は誰でもいいから治よりも先に彼女をつくりたいはずだ。それなのに、形だけだろうと自分が誰かと恋人として一緒にいる光景が、微塵もイメージできない。どんな瞬間を想像しても、治の姿が消えないのだ。
「え? ……そう、やと思ったんやけど、わからへん、ちゃうんかな」
「……もし、もしやで。たとえ話やけど――」
 治がそこで言葉を切る。一度口をつぐんで、視線が侑から逃れるようにさまよう。それから再び侑を捉えて、口をひらいた。
「……俺の初恋がツムで、ずっと前から好きって言うたら、どうする?」
 侑はぽかんと口を開け、まばたきも忘れて固まった。頭が働かない。30秒ぐらい経って、ようやく侑は口をぱくぱくと動かした。
「……え、それ、ホンマに?」
「……ホンマちゃう、たとえ話やて言うとるやろ」
 治がふいと顔を背けたが、その頬がほんのり赤く色づいている。そんな表情で否定されても説得力なんてないに等しい。今日は治と話しながら、なんだかパズルをしている気分だった。治と目が合った瞬間に、最後のピースがぱちりとはまったような心地がした。
 侑は治の両手を捕まえて、ぎゅっと握り締めた。
「サム、こっち向け」
 治がおずおずと緊張した顔をこちらに向ける。緊張が伝わって、治の手を握る手に更に力がこもる。
「もしサムの初恋が俺なんやったら、俺、さっき気づいてんけど、俺もずっと前から好き、サムが俺の初恋や、って、言う……」
「……さっき気づいたのに?」
「……しゃーないやん、サムに恋人できるん、いややな、なんでやろって考えたら……気づいてんもん。あー……つ、付き合う……?」
「なんやそれ……恋人いらん言うとったやん。手のひらクルックルか」
「えー、それは……はっず……」
 妙に甘ったるい、けれどなんとなく落ち着かない空気。ふたりはしばらくうつむいたまま黙りこんでいた。治の手を握ったままだった侑が、ようやく治の顔を照れくさそうに上目遣いに見る。
「なあ、サム、ホンマやろ、さっきの。たとえ話ちゃうやろ? ……と、とりあえず、付き合う?」
 治もようやく顔を上げて、侑を見た。むすっとした顔をしているが、顔は真っ赤でほんのり潤んだ瞳を見れば、照れ隠しなのは明らかだ。
「……とりあえずってなんやねん。付き合うなら浮気禁止やで」
「せっかく初恋が実ったのに、そんなんするわけないやん」侑はくしゃりと笑った。両手に包んだ治の手を、形を確かめるように強弱をつけて握ったり、すりすりと指や手の甲を撫でたり、最後に祈るように両手で包んだ治の手を額に引き寄せる。昔はそっくり同じだったはずの手も、治のほうが侑よりごつごつして固い感触になった。一緒にバレーに励み、同じように成長し、セッターとスパイカーとしてそれぞれのポジションで互いを高め合ってきたからだろう。手を触るだけでも、ふたりで過ごしてきた年月が細かに思い出せる。
「サム」
 目を開ける。治の灰色の瞳が、侑を見つめている。無意識のうちに治の手を引き寄せながら、侑はからだを前に傾けた。顔が近づいて、治が驚いたように目を見開いている。鼻がぶつからないように、顔を傾ける。唇が触れる一瞬前。
 唇にひゅっと治の吐息がかかり、侑はぴたりとからだを止めた。突然はっと我に返って、急激に恥ずかしくなる。
 俺、何しようとしてたん? 
 顔が熱い。たぶん、いま治のことを言えないぐらい真っ赤な顔をしている。治と両想いだからといって、浮かれてがっつきすぎた。かっこ悪い。恥ずかしい。侑は気まずそうに顔を離し、ぎこちなく笑った。
「あは、ごめん、なんか、いきなりするんも、ちゃうよな……」
 そのまま離れようと手を緩めると、すり抜けた治の両手に胸ぐらを掴まれる。そのままぐんっと引き寄せられた。普段の乱闘ならばこのまま怒鳴り散らしながらがくがく揺さぶられるのだが、今日はちがった。声を出す間もなく、唇にはマシュマロみたいなやわらかな感触が押しつけられていた。頭が真っ白になる。長いようで短い間、くっついていた唇が離れてようやく頭の中の真っ白なモヤが晴れる。自分からキスをしたくせに治は困ったように眉を下げて唇をきゅっと噛み締め、顔を真っ赤にしていた。
 初恋って、想像よりもただただ甘ったるい。


2022.07.31