nakaminai

セカンド・キス

 いつだったか、小学生の頃の思い出話をした。
「小4のときなー、覚えとる? 部屋の前で喧嘩して、お前階段から落ちたやろ。引くぐらい泣いとったやんか。俺、むっちゃ怒られたなー、あれ。おとんに殴られたんあれ最初で最後やわ」
 俺は当時を思い出して笑った。喧嘩のきっかけは、たしかいつもの些細なことだった。それがヒートアップして、つい、治を突き飛ばした。階段を転げ落ちたのだから、泣くのも仕方ない。幸い大きなけがはなかったが、俺は父に強かに頭を叩かれた。なかなかに衝撃的だったはずなのに、それを聞いている治はぴんときていない顔だ。ほどなくして、治は首をすくめて鼻で笑った。
「そんな昔のこと、もう覚えてへんわ」
「え! うそやろ。サム、記憶力悪すぎやろ」
「じゃかあしいわ。頭のキャパはな、有限なんや。いらんもんは捨てていくんや」
 治がもっともらしいことを言って頷く。ただ記憶力が悪いだけだろうに。
 その時は、俺が覚えていることを治が忘れている事実が面白くなかったけれど、よくよく考えればもっと昔である小学1年生のことなんて、もうとっくに忘れてしまっているということだろう。俺はこっそりと胸を撫で下ろした。

 小学1年生の夜。あの日も治がわんわん泣いた。

 喧嘩なんてしてなかったし、階段から突き落としてなんてないし、叩いてないし、蹴ってもないし、物を投げつけてもないし、噛みついてもいない――強いて言えば、噛みついたのが近いかもしれない。
 俺と治はいつも、部屋に戻ると眠くなるまで治のベッドでゲームをしたり本を読んだり、おしゃべりをして過ごした。この日もいつも通り、治のベッドの上で向かい合っておしゃべりしていた。治が眠たそうだと思ったとき、いつもなら「もう寝よ」と切り出して「おやすみ」と言い合って自分のベッドに移動するのだが、この日はちがった。
 ぼんやりしている治の肩を掴んで身を乗り出すと、治の唇に自分のそれをくっつけた。くっつけてみると柔らかくて、最近初めて食べた甘くてふわふわなマシュマロを連想させたから、美味しそうやなと思って、更に下唇にはむっと食いついた。味はしなかった。

 唇を離して、どんな顔をしているかと治の顔をうかがうと、片割れは大きな目をますます大きく見開いて、ぽかんと口を開けて俺を見ている。びっくりして、そのまま思考が停止してしまったような、「いまのなに?」と問いかける顔。俺は小さな優越感を覚えながら治に言った。
「キス! さっき、おかんが見とったドラマでキスしとったやん」
 月曜夜9時の恋愛ドラマを母が毎週見ていて、俺と治もリビングでゲームをしながら時折テレビを眺めていた。子どもには退屈な内容だったし、ずっと見ていたわけではないから話の流れはわからないが、とにかく主人公の女性が好きな相手としていた行為が「キス」だった。
 俺の説明を聞いても治は不可解そうに眉をひそめた。
「ええ……」
「どんなんかなって思って」
 双子だから、全部同じだと思っていた。やりたいことも、好きなものも、考えていることも、感じることも、からだの隅々、爪の先から毛の一本まで全部ぜんぶ同じだと思っていたのだ。俺が治を好きな分、治も同じだけ俺を好きだと信じて疑わなかった。だから、治も俺とキスしてみたいと思っているはずだと妙な確信があった。

 しばらく呆然としていた治の瞳に、突如じわりと涙が滲む。予想外の展開にぎょっとして、からだが動かない。
 なに? なんで? と思っているうちに、涙がぼろぼろ溢れて「ううー」とうめくような声が漏れる。
「治? どないしたん」
 今思えば、我ながら「どないしたんもなんもないやろ!」と言いたいけれど、当時は本当にわからなかった。それはたぶん治も同じで、頭のなかがぐちゃぐちゃでうまく言葉にできなかったのだろう。そこからわんわん泣き出して、さすがにただならぬ泣き声に驚いたらしい父が飛んできた。勢いよくドアが開いて、ベッドの下段で向かい合って座りこんでいる俺たちを見つけて駆け寄ってくる。
「どないしてん、また喧嘩したんか? 侑、叩いたん?」
 治の頭を撫でた父が、治と違って少しも泣いていない俺の顔を見る。俺は父を見上げたまま、ぷるぷる首を振った。本当に叩いてなんかいないし、そもそも治は俺が叩いたぐらいでは泣かない。1回叩いたら10倍叩き返してくるし蹴りまでオマケしてくるやつだ。
「治、どないしたん? なんかされたんか?」
 なんとなく、自分が悪いことをしたのだと察した。もちろん、悪いことをしたら親に叱られる。うわー言いつけられる、どないしよ、とはらはらしている俺の顔を見もせずに、治は俺と同じようにぷるぷる首を振った。つまり、「何もされてない」と治は主張している。これに驚いたのは父だけでなく、もちろん俺もだ。
「ええ、ホンマに?」
 父が頬を引きつらせる。「絶対に侑が手を出したのだ」と思っていたのだろう。治がひっくとしゃくりあげて、涙を腕で拭いながら今度はこくんと頷く。
「ほな、なんで泣いとったん?」
 治はまたぷるぷる首を振るだけで、答えない。困った父はまた俺を見たが、俺も何も言わずにぷるぷる首を振った。たぶん駆けつけたのが母だったならもっとしつこく詰られていたのだろうけれど、結局父はすぐに折れた。
「そうか……喧嘩もほどほどにするんやで。はよ寝えよ、おやすみ」
「おやすみ」
 入ってきたときとは反対に、父は静かにドアを閉めて出て行った。階段を下りる足音が遠ざかるのを聞きながら、まだひっくひっくとしゃくりあげている治をちらと見て「ごめん」と小さな声で謝る。治は濡れたまぶたをごしごし擦っているだけで何も言わないから、仕方なくベッドに取り付けられたはしごを上って自分の布団に潜りこんだ。しゃくりあげる治の声が寝息に変わってからも、俺はなかなか寝付けなかった。

 やられた本人がとっくに忘れ去っているのに未だにずるずる引きずっているなんて、まあまあ女々しい男だと自分でも思う。ませたクソガキのとんだ思い上がりで、馬鹿で、自分勝手で、穴があったら入りたいぐらいの記憶だけれど、定期的に思い出してしまう。大人に近づくごとに、軽率にキスをするものではなかったと後悔が重たくなる。
 あれが、俺たち双子のファーストキスになってしまった。ただの子どものおふざけやんか、という気持ちもなくはないけれど、俺にとってはちがう。
 治は嫌やったろうな、ちゃんと謝ったほうがええよな、でも……なんてうじうじ思い悩んでいるうちに、なにも言い出せないまま何年も何年も月日は流れ、からだも心も成長していく。治もまたあのキスについては一切触れることはなかったし、俺にも普通に接しているし、普通どころか喧嘩になると容赦ない暴力を振るってくる。

 月日は流れ、俺と治を繋ぐ「双子」という死ぬまで変わらない関係の上に、新しい関係が加わる。高校2年生になったいま、俺たちは恋人同士になっていた。そうなれば当然、キスへの後悔はいまや欲求へと塗り替えられていた。
「サム」
「あん?」
「キス、しても、ええ――ですか?」
 ベッドでうつぶせになってスマートフォンを操作していた治が顔を上げる。
「なんで敬語やねん。キモ」
「うっさいわ! 俺ら付き合いだしてから一週間経つけど、キスもしてないんやで。いままでとなんも変わってへんやん」
「はあ……俺のベッドやのに、なんやいつまでもどかへんなあ、邪魔やなあと思っとったら……」
「誰が邪魔やねん」
「お前や。で、ちゃんと歯磨きしたん?」
「した!」
「ほーん。ほなしよか」
 治はあっさりからだを起こし、俺にからだごと向き合り、片膝をたてて座った。自分から希望したくせに、あまりにもスピードが速すぎてたじろぐ。キスしたいと思ったのは本当だし、なんなら毎日悶々とキスのことばかり、たまにそれ以上のことだって考えているのも本当だ。けれど治はシャイなところもあるし、「今度な」なんてはぐらかされるだろうと思っていた。今日ではなくとも近いうちに、という約束さえ交わせれば俺は十分だったのだ。
「え、まってまって、いきなり、今日? 心の準備が……!」
「今日て……たかがキスぐらいで日跨がなあかんのかい、めんどいやつやなあ。口ん中汚くなかったらええやん」
「え、なんか余裕やん……お前、もしかしてしたことあんの?」
「さあ、どうやろ……ツムが緊張しすぎなんや。ほれ、キス、するんやろ。目ぇ閉じろや」
 治がからだを傾けて顔を近づける。治にリードされるのは癪だった。俺のほうがかっこよくリードしたいし! こんなときにまで発揮される負けず嫌いがなんだか子どもくさいけれど、それを恥じるより前に声に出てしまっていた。
「は!? お前が目ぇ閉じろや」
「はあ? ……ん」
 何か言いたげだった治は口をつぐむと、ひざを倒してあぐらをかく格好になり、おとなしくゆっくりとまぶたを伏せた。そろりと肩を掴むと、くるぶしの上に置かれた治の手がきゅっと握られるのが目に入った。つられて、自分の手にも力が入る。ドキドキ、というよりドッドッと心臓が脈打つ。治の顔が近づく。俺とそっくりの形をした眉と眉の間にしわが刻まれている。閉ざされたまぶた、すっと通った鼻筋を下りて、ひらいている時間の7割はめしを食い、2割は俺を罵倒しているくちびるに視線がとまる。静かに閉ざされたくちびるはふっくらしていて、長らく口にしていないマシュマロみたいに見えた。きっと甘くてふわふわでおいしいのだろう。口を開けて、マシュマロを食む。

 ――あ、キスしてしもた。人生2回目の、小学一年生以来のキス。

 味なんてわからない。スースーする。いや、これミントや、歯磨きの。全然甘くない。期待外れの味だったけれど、なんだか泣きたいぐらいにこみあげる幸せを感じた。
 ただぴっとりくっつけているだけだったくちびるを、名残惜しく思いながらゆっくりと離す。治はまぶたをひらいて、俺の目を見た。それから濡れたくちびるの合間から歯を見せて、にんまりと笑う。

「……お前、小1の頃のほうがキスじょうずやったんちゃうん」
「はあっ!?」
 さすがの俺でも馬鹿にされていることはわかる。
「いまのんがうまいに決まっ――……えっ?」
 思わず反論しようと口をひらいたのだが、ちょっと待て。治の台詞を頭のなかで反芻して、言葉が出なくなる。目玉が飛び出そうなほど目を見開いた。治はくるぶしの上で握られていたこぶしを持ち上げ、勝利のVサインよろしく人差し指と中指をたてて俺に見せた。
「カウント間違っとるんちゃうか。これ、2回目やで」
「……」

 まったくもって、言葉が出ない。

 お前、覚えとったんかい! ツッコミたいのに、唇が震えてうまくひらかないまま、またぴたりと横一文字に閉じてしまう。みるみるうちに顔に熱が集まるのを感じて、うつむいた。はー、と長すぎるため息をつく。はんたいに、治は楽しそうに声を弾ませて笑った。
「フッフ。ホンマ、アホツムや。な、こっち向け」
「なん……」
 顔を上げる。あごをすくわれて固定される。治の顔が、瞳が近い。ふに、とくちびるにやわらかなものが押し付けられる。考えるまでもなく、治のくちびるだ。
「3回目」
「……おん」
「おんちゃうわ」
「……4回目、してええ?」
「はや! 欲張りやなあ、侑クンは」
「したいんやからしゃーないやん! サムは嫌なん?」
「んー? いやちゃうよ」
 もう一度、そろそろと唇を合わせる。下唇をやわく食んで、ちゅうと吸って離れる。なまぬるい吐息が唇を撫でる。下りていたまぶたがひらき、治の瞳が俺を映す。眉を下げて、いまにも泣きそうな、情けない顔をしていた。
「なに泣いてんねん。自分からキスしたくせにびっくりしたんかい」
 治が噴き出すように笑って、俺の下まぶたを親指でぐいっと擦る。
「アホ、泣いてへんっ!」
「泣いとるわ、アホツム。なんでそんなわかりやすい嘘つくねん、指濡れとるやん」
 治が親指を俺の目の前に突きつけてきたけれど、指が濡れているかどうかなんて、視界がふやけてよくわからなかった。なんだかおかしくて笑ったら、また治の顔が近くなる。こんなに近かったら、さすがにふやけた視界でも見える。ついばむように唇が触れ合って、また離れる。治がまた、嬉しそうに笑った。


2022.11.03